杉浦重剛先生の『教育勅語』御進講本を読み返してみた。
「境遇」「長幼の秩序」「徳には秩序あり」「先後緩急の順序」
など、『教育勅語』には直接示されていない、環境や序列を示す言葉が頻出する。この辺りに、どうやら西洋的価値観を心酔する現代人との齟齬があるような気がしてきた。つまり、『教育勅語』の時代は、厳然とした個々人の境遇の違いが意識されていたにも拘らず、現代人はこれを認めずまたは無視して、何でも一括りに見ているように思う。
如何に中流意識が強い現代でも、一人一人の境遇がすべて同一ということは、ありえない話だ。諸外国に比べればその差が小さいとはいえ、富める人もいれば貧しい人もいる。会社においても、肩書によって上下の区別がある。男女の差異もある。職業も様々である。これが現実というものだ。それを一律に同じであるかのような錯覚にとらわれて事象を見るから、おかしくなるのではないかと考えている。
二宮尊徳が提唱した「分度」という言葉を思い出す。自分の実力相応の生活を守ること、と理解している。質実剛健な生活態度である。個人的に好きな言葉だ。二宮尊徳といえば、壱圓札の印象しかないが、『教育勅語』に影響を与えた人物という伝聞を耳にしたことがある。だから、『教育勅語』が現役の頃は、「分度」が保たれていたのだろう。
ところが、現代社会は、「分度」が破壊されたかのようだ。
・一攫千金を煽る金融機関
・本分を忘れ、副業で失敗する企業
・働かずブラブラしてろ、といわんばかりの福祉政策
・「老害」と称して年長者を蔑む社会的な風潮・・・etc.
「分度」をわきまえていれば、惑わされるはずのない事柄だ。気がついてみたら、まさに自分がこの渦中にあった。自分自身が見て見ぬ振りをしてきた報いである。
大志を抱くことは否定すべきでないと思うが、一朝一夕にできることではない。「うさぎとかめ」の亀が奨励されたのが戦前とすれば、戦後は兎になろうとして失敗しているのではないか。現世は「分度」を超えている。政・財・官・民とも、思い上がりが見え隠れする。教育界・マスコミ界も同じだ。本分を忘れた責任のなすりあいに終始する情けない世の中に成り果てた。権力・権威を持つ者は、それに伴なう責任が存する。
私(たち)が期待しているのは本分であって、彼らの私生活にはまったく興味がない。政治家なら政策で、官僚なら行政で、企業人なら商品で、サービス業ならサービスで、教育機関なら教育で、報道機関なら知りたい情報を提供してくれるだけでよいのだ。それ以外は必要ない。バカな国民を教育してやろうとか、手っ取り早く儲けてやろうとか、ごまかそうとか、余計なことを考えるからおかしくなるのだと思う。
もっとも、自分自身が本分を果たしてきたか、と問われれば、小さくなるしかない。自分も世の中の構成員だものね。反省しています。だからこそ『教育勅語』を浸透させたい。
2006年8月23日(水)の記事
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