貧乏だった幼児の頃、二宮尊徳の壱圓札が宝物にみえた。自分で稼ぐ術も知らず、お金など望むべくもなかったからだ。お金に困らなくなった現在はどうか。百円玉を失くしたら、悔しくはあるが、まあいいか、で軽く済ませてしまいがちだ。昔とは貨幣価値が異なるが、ここで言いたいのは、難易度や貧富の状況によって、金銭の有難さ(重み)が違ってくるということだ。断っておくが、周囲も同じだったので、決して貧乏とは思っていなかった。現在と比較すれば、という後付の表現である。
新入社員だったとき、「医師年金」の募集があった。当時、自分の月収は三万円。一口五千円の高額保険に加入する人がいるだろうか、と懐疑的だった。パンフレットは十口例にも拘らず、自信なく一口で勧めていたら悉く断られてしまう。どうせ断られるなら、とパンフレットを置かせてもらうだけにし、後日訪問する“御用聞き”方式に戦術転換したところ、面白いように契約できた。ほとんど十口五万円の契約だ。自分とお医者さんの金銭感覚には、雲泥の差があったというわけ。
話題変って、ご馳走ばかりを食べていたら、飽きませんか? ご馳走はたまにしか食べられないから、ご馳走なのだと思う。偏食激しい私にとって、ときどき給食で出てくる安価な鯨の唐揚げこそご馳走だった。毎日飲まされる脱脂粉乳が大嫌いだったからだ。高価なバナナも大好物だったが、遠足、運動会以外はめったに買ってもらえなかった。
ところが現在、鯨肉は食卓とは無縁になり、逆にバナナは安くいつでも手に入る。どちらも好物には違いないが、やたらに鯨肉を食べたくなるのは、入手し難い鯨肉の価値を、自分の心の中でバナナより上位においているからにほかならない。
このように、自分自身の価値判断も、時代や境遇・難易度・相手によって変わるし、変えなければならないことに気づく。価値には絶対的な基準などなく、相対的に変化する、ということだ。
長老の目には、「いまどきの若者は困ったもの」と映るだろうが、いつの時代にも言われてきたことだ。一部におかしな人間がいることも事実だが、これも昔からあった傾向にすぎない。現代といえども、根っこの部分は大きく変っていないと思う。『教育勅語』が伝統的な道徳の集大成とすれば、あろうがなかろうが、当然の帰結である。道徳とは心(感情)が発するものであり、頭(理屈)で考えることではないのだから。
2006年9月2日(土)の記事
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