『教育勅語』の復活を願う一人として、そのものでなくても、日本人の“心の背骨”として、その精神を現代に蘇らせればよい、と考えている。したがって、「教育基本法」に盛り込むのであれば、それもよし、と考える。ただ、“心の問題”を法制化するのはいかがなものか、という思いもある。『教育勅語』が法律ではなく、明治大帝の“お言葉”だから、意味があったのではないか、と愚考する。
小学四年時、教室の正面には、
わたくしたちは、きょうも一日、
よい子になります。
つよい子になります。
正しい子になります。
という額が掲げられ、朝礼でこれを唱和させられた。そして、終業時には、この額が裏返され、
わたくしたちは、きょうも一日、
よい子でした。
つよい子でした。
正しい子でした。
と反省させられた。小学五・六年時は、これが立て札に変わり、「むごんのぎょう(無言の行)」と「もくそう(黙想)」が表裏になっていた。授業中は「むごんのぎょう」、考えるときは「もくそう」の強要だ。児童にとって、これらの意味はまったくわからなかった。今でこそ、“集団生活の心得”として理解できるが・・・。
“心”とは「理屈にあらず、感情なり。」の世界だと思う。これに対し、“頭”とは「感情にあらず、理屈なり。」の世界と勝手に想像している。
現代教育界の問題点を一言で表せば、“心”を軽視して、“頭”のみに頼りすぎている、のではないか。
2006年8月5日(土)の記事
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