小四のとき、「一日一善運動」が実践された。一日一回だけ、他人のためになることをする。親の手伝いでもよし、友達への親切でもよし。途中から親切の押し売りになったりしたが、結構楽しかった。ポイントは自分自身で考えること。最初のうちは、打算もあって小遣い稼ぎに精を出したが、やがて校庭の清掃や石ころ拾い、便所掃除に熱中するようになった。奉仕というより完全に遊びだった。
竹箒を借りるため、終業すると競い合って用務員室に駆け込む。竜安寺の石庭よろしく、校庭の端からスジをつけていく。竹箒にまたがって「魔法使いだ!」と叫びながら、何分で校庭全面にスジがつけられるか、タイムを計る。石ころ拾いでは、大きさを競う。少しでも小さいと「砂じゃねえのかや」とからかわれる。用務員さんはありがた迷惑だったろうが、それでも、落ち葉で焼き芋を食べさせてくれたりした。自分で考えたことだから、ちっとも苦痛ではなかった。
社会人となってからは、仕事を生業(なりわい)と考え、ひたすら自分のために働いてきた。組合役員をしている頃、共産党系顧問弁護士(故人)は、「開き直ったサラリーマンは強い。」という名言(迷言?)を残している。確かに、「休まず、遅れず、働かず」の精神で、言われたとおりにしていれば、クビはおろか降格にもならず、会社が天国に思えた。しかし、単調な日々が、なぜか空しい。
ある日、小四の頃を思い出し、ちょっとした工夫をしてみた。連携作業のうち、次の作業をする側を顧客と捉え、どうしたら感謝されるか、知恵を絞った。ちょっとだけの工夫だが、大変喜ばれた。同時に、自分の仕事量も増えた。でも、ちっとも苦にならない。自分の工夫が役立っていることが、実感できたからだ。
現代人の誤謬は、自分のためという意識が強すぎると思う。そのくせ、自分の仕事に何の疑問も感じていないようだ。言われてする仕事は、はっきり言ってつまらない。自分で考え、自分で工夫することこそ、仕事の醍醐味だ。
昔の映画では、「お役に立った」「お役に立ちたい」という言葉がキーワードのようにでてくる。何をしてもらうかではなく、自分に何ができるか、という発想の転換をすれば、楽しいですよ。国(社会・会社)に何をしてもらうかではなく、国(社会・会社)に何がしてあげられるか、を考えてみませんか?
2006年8月20日(日)の記事
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