物質文明の発展は、未来に向かって人類を“傲慢”に陥れる。
拙宅には、自分で作り出したものなど、何一つない。あるとすれば、自分が原因のゴミだけ。それでも、日常生活にはなんら支障がない。裏返せば、これらの物品を取り上げられたら、たちまち生活が破綻することを意味する。先人や他人様の知恵とか創造物によりかかっているだけで、己の努力は、せいぜい加工・工夫ぐらいのものだろう。古代人と同じ環境なら、とても生きていけない。
世の中には、地位や財力にモノを言わせて威張る人がいる。しかし、頭を下げたり、従ったりするのは地位や金銭に対してだ。決して、彼の人格を尊敬しているわけではない。地位と金銭を取り上げたら、何もできないくせに。
人間は、一人では生きられない。
この「真理」を幼いうちに知覚させることが、道徳観醸成の出発点、と考える。そのうえで、日常生活の場面に応じて、生きていくためにはどうすればよいかを子供自身に考えさせる。
概ね『教育勅語』の十二徳目に収斂されるはずだ。衣食住の実権は、親(大人)が握っているのだから、間違っていたら、自分でやってみろ、と突っぱね、正解だったら、誉めてあげればいい。
ここでのキモは、暴力的に服従させようとする行為だけは、徹底的に否定しなければならない。そのパワーを世のため人のために使うように導くことこそ教育者の務め、と思う。
人類を“傲慢”から救う術が『教育勅語』に示されている。自分で習得したものは、簡単には剥がれない。これが教育効果を得る鉄則ではないか、という気がする。教育は、被教育者(子供)のために行うものだ。決して親や教育者を満足させるためではない。「教える」のではなく、「学ばせる」ことだ。戦後教育の誤謬は、「教える」ことに目を奪われ、「学ばせる」視点を欠いた点にあるように感じる。
いくら立派な教育理念を掲げようとも、当の本人が聞く耳を持たなければ、「馬の耳に念仏」である。社会生活に必要最低限の道徳・不文律は、骨身に沁みてわからせる必要がある。
それは、親や学校・文科省の責任であるばかりでなく、社会全体の責任でもあることを自覚しなければならない。子供は大人を見習っているだけなのだから・・・。
2006年7月12日(水)の記事
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