昨今の「教育改革」論議で、あえて言いたいのは、もっと子供の身になって考えて欲しいということだ。当事者の子供は議論に加われない。だから、保護者である世の親にしっかりして欲しい。身体を張って護ってやらないから、子供から信用されない。無論、過保護もダメである。幼いうちは、理性が発達していない分、動物的な本能が強く残っている。
自分の庇護者(普通は親)を本能的に見つけ、それに従う。物事への興味(好奇心)は大人より旺盛だ。しかし、関心事は各々違う。
男児は凛々しく強くなりたいのだ。
女児は清楚で美しくなりたいのだ。
みんな、自慢できるものが欲しいのだ。
それは、金銭や物品とは別のものなのだ。
他の子にない自分の能力を誇示したいだけなのだ。
こうした感情をうまく利用して自立心を持たせ、誉めたり叱ったりして才能を伸ばしてあげればよいものを、反対のことばかり要求されるから、生理的な拒絶反応を起こして、荒れてしまうのだと思う。まさに、「理屈にあらず、感情なり。」の世界である。
もう一つ、責任のなすりあいは、解決にはならない。政府が悪い?、教育基本法が悪い?、教育委員会が悪い?、日教組が悪い?、親が悪い?。はっきり言って、みんなダメだから、こうなってしまったのではないか。法律のせいなら、その効力の凄さを思い知って、粛々と改正すればよい。日教組のせいなら、敵ながら天晴れ、とエールを送って、彼らより劣る己(親)の威信を恥じ、親の威厳を取り戻せばよい。それだけのことだと思う。
子供たちは、大人の動向を鋭い目で見ている。大人たちが、戦わずして逃げだすからダメなのだ。昔から“いじめ”はあったし、悪ガキもたくさんいた。今と違うのは、家庭・学校・地域社会とも、自らができる範囲で、社会の悪と戦う勇気と自浄能力があった。自分たち子供を護ってくれる大人たちの存在を、頼もしく感じながら育ってきたのが、現在の大人ではなかったか。昔の人にできたことが、なぜ今できないのか。できる範囲で子供たちを護ってあげれば、それでよい。できないなら、もはや子供に「反面教師」を期待するしかない。
2006年5月26日(金)の記事
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