妙な結論になるが、自分の思うがままに行動していたはずが、結局のところ『教育勅語』に従わされていただけ、ということだろうか。今では、恩師の狙いも、ここにあったと考えている。“教える”のではなく“自ら掴ませる”ところに、教育の真髄があるのかもしれない。
これは、日本古来の伝承法である。昔の武芸者は、単独で山に籠って修行を重ね、ある日突然開眼して、免許皆伝を得た。板前だって同じだ。下積み生活の中から、職人の業を自ら鍛え、自分のものにしていく。自ら掴んだものは、簡単には剥がせない。そこに、ご先祖様が高い価値を見出していたからこそ、この伝承法が受け継がれてきたのだと思う。新しいだけのものは、価値がなければすぐに消えていく。現在に残る旧いものは、それだけで価値ある証拠である。
『教育勅語』には、“日本人のこころ(大和魂)”が凝縮されている。米占領軍(GHQ)が、これをなぜ廃止させたか、に思いをいたす必要がある。物量で辛くも戦争に勝ったものの、日本軍人の底知れぬ強さと国民の結束力の前に痛い目に遭ったからである。その源泉がここにある、と見ていたのだ。
神話の世界と現代を繋げる皇国史観に立った杉浦本は、史実でない神話が含まれるという批判もあるだろう。それなら、キリスト教聖書は、すべて史実に基づくといえるのか。クリスチャンは、史実だから聖書の教えに従っているのか。問われているのは、歴史ではなく、内心であり道徳である。史実かどうかは、まったく関係ない話ではないか。
『教育勅語』は、日本人にとっての“聖書”である。現代日本人を惑わす西洋的価値観の対極にある。西洋文明による現代社会の混乱は、文明開化の明治初期と酷似している。そんな時代背景があって、『教育勅語』をお示し給うたのである。したがって、この実践こそ唯一の解決策であり、特効薬だと思量する。「良薬は口に苦し」・・・・飲みたがらない人には、無理にでも飲ませるのが、医者(良識ある人)の務めだ。
今こそ、『教育勅語』を現代に甦らせ、日本人本来の心を取り戻そう。日本人なら皆、「大和魂」を持っている。いまだこれが顕在化しない人は、本来の心が天下泰平に惰眠を貪り、仮死状態に見えるだけである。心配せずとも、いざというとき(一旦緩急アレバ)には、びっくりして必ず飛び起きる。
(蛇足)
明25日朝、チェンマイを発ち、夜遅くには東京の自宅に戻ります。
2006年6月24日(土)の記事
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