最近の若者は、自分で考え、疑問を持つことを忘れてしまっているように思えてならない。古い映画を見るにつけ、昔の人には、信念と気骨があったような気がする。
接客に例えると、すべてがマニュアルどおりであり、そこには自らの意思や顧客の気持ちを汲み取る姿勢が感じられない。
「店内でお召し上がりですか」
→「だから、こうしてわざわざ来たのだ」
「千円からでよろしかったですか」
→「見ればわかるだろう」
「おタバコをお吸いになりますか」
→「すいません。何で謝らなきゃならないんだ」
学力(読み書き算盤)の低下も著しい。語彙が不足しており、暗算、特に引き算が不得手のようだ。パソコンや電卓が普及し、自分で考えなくても済むからだろう。850円の食事で、200円お釣りをもらおうと1050円出すと、50円を突き返し、改めて150円のお釣りをよこす娘もいる。
我々は、釣り銭計算には引き算を使うが、欧米では足し算が主流のようだ。例えば、100$札で75$25¢の買い物をする。商品に20$札を乗せて95$25¢と数え、さらに4$75¢を加えて100$にしていく。105$25¢で30$のおつりをもらおうとしても、端数を突き返されることが多い。
戦後教育は、「教育勅語」「家長制度」など、戦前の価値観をすべて否定することから始まった。しかも、「自由」「平等」という西洋的価値観を妄信するばかりである。○×式テストに代表される二者択一の教育は、△の存在すら顧みられなくなってしまった。西洋的価値観を突き進めて行けば、わがままな社会に行き着き、軋轢が生じるのは明々白々である。日本の伝統的美風に、二宮尊徳が提唱した「分度」という言葉がある。今一度、この「分度」を見つめ直すときではないのか。
2006年3月3日(金)の記事
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