9日から、タイ国チェンマイに来ている。借りているマンションは、小学校に隣接しており、さきほど(午前8時前)、朝礼を見学してきた。
児童が校庭に全員集合し、正面の軍服姿プミポン国王ご真影に向かって、直立不動で国旗掲揚と国歌斉唱を行う。校長の訓示を受けて、風紀検査があったあと、鼓笛隊の吹奏にあわせて教室に戻っていた。すべて児童による自主運営だ。戦前の尋常小学校はかくありなん、と思わせる実にすがすがしい光景だった。
いま、タイでは国王ご在位60周年の祝賀行事が催されおり、ご真影と国旗がいたるところに溢れている。昨日、天皇皇后両陛下がお着きになり、この行事にご参加なさる予定である。皇室とタイ王室との関係は古く、かつ共通した姿勢があるような気がする。ともに、ご自身の栄耀栄華にはまったく関心がなく、何よりも国民の安寧と世界平和を願っておられるという点だ。そのため、権力などなくとも神のような権威を感じ、国民から大いに尊敬されるのだと思う。
タイで教育勅語に相当するものがあるのかどうかわからないが、なぜかその精神を随所に見ることができる。世界共通の普遍的な道徳であることの証明なのかもしれない。
ところで、自分なりに考えてみたのだが、その人にとっての最高権威者(権力者ではなく)の姿勢が己の道徳に反映しているのではないか、と思ってみたりもしている。天皇陛下こそ、教育勅語の具現者であろう。天皇を尊敬する人なら、教育勅語を知る知らないにかかわらず、天皇の大御心に一歩でも近づきたいと考えるのではないか。事実、私はつい最近まで教育勅語の内容を知らなかったが、心がけてきたことは、その精神そのものであった。もちろん、数々の過ちも犯したが、それを悔い改められる「こころ」がある。
同様に、国王陛下を敬うタイ国民は、国王を模範にしているのだと思う。キリスト教を信じるクリスチャン、イスラム教を信じるモスレム、唯物的な共産主義者など、それぞれの人が自分の信じる思想や権威により、複雑な相互関係も絡み合って道徳を形成しているのではないか、と考える。
タイ国にくると安らぎを覚えるのは、日本ほど左翼がのさばっておらず、全国民が国王を心から尊敬しており、国王の慈愛に抱かれて、暮らしていける幸せが実感できるからにほかならない。
2006年6月12日(月)の記事
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