<朝ドラ「エール」と史実>
本当は危険な前線まで行っていない?
古関裕而がビルマでやっていたこととは
10/12(月) 8:30配信/yahooニュース
■ 慰問というより中佐待遇の従軍だった
朝ドラ「エール」の戦時下篇も、ついに4週目に突入しました。今回は、初っ端からビルマの慰問です。前回予想したとおり、やはり1944年の戦地訪問がベースになっているようです。
1944年の戦地訪問は、慰問というより、従軍でした。古関は、大本営陸軍報道部より報道班員に任命され、インパール作戦の取材を命ぜられたのです。報道班員とは、文化人や新聞記者、カメラマンなどを軍属として徴用して、軍の命令のもとで宣伝や報道に従事させる制度。ちなみに、古関は中佐待遇でした。
古関には、ドラマと同じく、作家と洋画家が同行しました。火野葦平と向井潤吉がそれです。
火野は、日中戦争に出征中『糞尿譚』で芥川賞を受賞。その後、報道部門に転属になって、『麦と兵隊』を発表するなど、兵隊作家として知られました。向井は、いまでは民家の絵で有名ですが、戦時中はたびたび従軍し、数多くの戦争画を残しました。「影(中国・蘇州上空にて)」という作品が、とりわけ有名です。
■ 火野葦平より託された「ビルマ派遣軍の歌」
古関たちを乗せた重爆撃機は、1944年4月25日早朝、羽田飛行場より出発。上海、台湾の屏東、サイゴン、バンコクなどを経て、4月29日(天長節=天皇誕生日)、ラングーン(現・ヤンゴン)に到着しました。古関は前回の戦地訪問でもラングーンに来ているので、これで2回目ということになります。
古関たちは、さっそく軍の司令部に顔を出しました。すると、目標であるインパールの陥落には、まだまだ時間がかかるとのこと。日本では陥落間近のようなことが言われていたので、これは意外な答えでした。いや、実際は苦戦も苦戦、7万2000名もの死傷者を出して、インパール作戦は失敗に終わるのです。その作戦の責任者こそ、古関も会ったことがある牟田口廉也でした。
そんなことを知らない古関たちは、しばらくラングーンに滞在していましたが、火野と向井はしびれを切らし、5月7日、志願して前線の様子を見に行くことにしました。そしてその出発の日、火野は古関に歌詞を託します。「ビルマ派遣軍の歌」がそれでした。
詔勅のもと 勇躍し
神兵ビルマの 地を衝けば
首都ラングーンは 忽ちに
我が手に陥ちて 敵軍は
算を乱して 潰えたり
宿敵老獪 英国の
策謀ここに 終焉す
勲燦たり ビルマ派遣軍
出典:古関裕而『鐘よ鳴り響け』
古関はかならず作曲すると約束したそうですが、その曲はビルマ滞在中に完成しなかったようです。
火野の日記の、8月27日の項には「古関君はしばらく盤谷[バンコク]に滞在、『ビルマ派遣軍の歌』はそこで作曲してラングーンへ送る由」とあります。これは、帰路に立ち寄ったサイゴンのことでしょう。古関は、サイゴンで演奏会の指揮にあたったのです。したがって、バンコクは勘違いかと思われます。
■ 「「ビルマ国軍行進曲」なども作曲して置いてまゐりました」
ようするに、史実の古関裕而は、ずっと安全なラングーンに滞在していたということです。火野と向井が帰ってきたのは、約2ヶ月後のことでした。「エール」では、主人公の裕一が前線に向かうそうなので、ここは大きく違う点です。
それはともかく、危険な前線から帰ってきた火野たちは、現地がいかに悲惨だったかを教えてくれたといいます。
火野葦平さんも戻って来た。その夜はオフィスで夜の更けるのも忘れて体験談を
一同で聞いた。泥濘と雨と悪疫。生命を保つさえ難しい兵隊に、進撃命令、進攻
作戦の地図上の参謀。すべては無謀、無断な作戦であった。火野さんの熱のこ
もった話に、我々は言葉もなく聞き入った。
出典:『鐘よ鳴り響け』
このような事情があったため、ドラマでは描かれないできごとがあります。
ひとつは、火野たちが前線にいっているあいだ、古関がラングーンでやっていたこと。古関は、雨季のビルマでデング熱に苦しめられながらも、そこでさまざまな音楽活動を行っていたのです。
ビルマ政府の国歌にしてもまだ伴奏がついてゐない、そこでこの国歌に私が
伴奏をつけて置いてきました。この他「ビルマ独立一週年記念の歌」とか「ビ
ルマ国軍行進曲」なども作曲して置いてまゐりました。(中略)
最後にスバス・チヤンドラ・ボース氏の率ゐるインド国民軍の軍歌を大分きい
てきましたが、なかなか面白いものがあります。作曲は全部印度国民軍の将校
がやつたものなのですが、これらの軍歌は今盛んに軍隊で愛誦されてゐます。
これも5、6曲ばかり採譜してきましたが此中には日本へそのまゝ持つて来ても
すかれさうな曲が相当入つてゐます。
出典:古関裕而「ビルマの印象を語る」『音楽知識』2巻10号
古関は、できて間もないビルマ国のために、音楽を作ってあげたというのです。そのほか、現地の部隊に頼まれるまま、たくさんの部隊歌を作曲しています。これは、古関自身の定義に照らしても、「戦時歌謡」ではなく軍歌だと思います。
■ 「「露営の歌」は怪しからん、死んでかへれなど、兵隊は死ぬのが本意ではない」
もうひとつ興味深いことがあります。古関はビルマにして到着早々、「露営の歌」で軍人に怒られたというのです。火野葦平が司令部で、井上という宣伝部長に古関を紹介したときのこと。それまで好々爺然としていたこの軍人は、さっと顔色を変えたといいます。
古関《裕而》氏を紹介すると、「露営の歌」は怪しからん、死んでかへれなど、
兵隊は死ぬのが本意ではない、生きてかへらなくちやいかん、憤慨にたへん
ので、自分の師団だけはこの歌をうたふなといつたことがあるといふ。作詞者も
ラングーンにゐると、澤山少尉話す。
出典:火野葦平『インパール作戦従軍記』
古関は作詞者ではないので、こう言われても困ったにちがいありません。なお、作詞者の藪内喜一郎は、このとき読売新聞の記者をやっていたので、おそらく取材でラングーンに来ていたのでしょう。古関も現地で再会したと思われます。
事前発表によると、「エール」では、裕一は、兵役中の藤堂先生とビルマで再会するようです。これはまったく架空の話ですが、もしかすると、この藪内との再会を膨らませたのかもしれません。
このように、1944年のビルマ訪問も、エピソードが盛り沢山です。古関は自伝でかなり詳しく戦地訪問について書いていますが、抜けているものも多々あります(記憶が曖昧になっているところも少なくありません)。ですから、以上で用いたような史料で補わなければならないのです。
執筆者/辻田真佐憲(近現代史研究家)
前稿では、チェコ訪台団代表ビストルチル上院議長が台湾議会での演説で述べた【自由】【真実】【正義】に仇なす国家として韓国を採り上げたが、【自由】【真実】【正義】の価値観を共有する側の共通の敵という意味で、今回はNHKをヤリ玉に挙げる。
自分は軍歌軍楽ファンを自認している。如何にドラマ(=作り話)上とは言え、関わった作詞家・作曲家の実像を歪めることは、感情的に許せない。辻田氏のことは知らなかったし、書かれた内容が正しくてNHK(ドラマ自体未見)が間違っている、との確証は何もない。けれども、第六感で辻田氏を信じたい。映画・TV・ジャーナリズムには、作為的な政治プロパガンダが潜んでいる可能性を承知の上で採り上げた。
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