上原敏(1908-1944)さんもリアルタイムで聴いたことがない。戦死されているからである。
秋田県大館町出身。知らなかったが歌手になる前は、旧制大館中学時代から野球選手だったのだとか。専修大学商学部進学後も続け、東京五大学リーグ戦(当時)で投手として優勝経験もあるらしい。わかもと製薬宣伝部入社後も社会人野球チームに所属、レコード会社ポリドール野球部と対戦した際、歌手になるよう勧められたのがきっかけという。
1942年、召集に応じて地元秋田で入営。歌手であることを知った上官からは内地に残るよう勧められるも、自ら戦地行きを希望したという。
(↑)野球選手・歌手だからと特別扱いされるのを嫌う。好きだなぁ、こういうバカ正直な生き方。
こうした流れを受けてニューギニア戦線に赴く。戦況悪化した1944年、島北部ウエワク地区で戦闘に巻き込まれて消息不明になったとのこと。
《ご参考》
戦没野球人慰霊名簿
五十音順;松本力治(本名)としてリストアップされている。
代表的なレコーディング曲は次のとおり。
1937年4月-『妻恋道中』
藤田まさと作詞/阿部武雄作曲
1937年7月-『流転』
藤田まさと作詞/阿部武雄作曲
1937年8月-『裏町人生』
島田磐也作詞/阿部武雄作曲/結城道子共唱
1938年1月-『上海だより』
佐藤惣之助作詞/三界稔作曲
1938年1月-『鴛鴦道中』
藤田まさと作詞/阿部武雄作曲/青葉笙子共唱
1938年4月-『泣き笑いの人生』
島田磐也作詞/飯田景応作曲/東海林太郎共唱
1938年4月-『南京だより』
佐藤惣之助作詞/山田栄一作曲
1938年5月-『徳利の別れ(赤垣源蔵の唄)』
野村俊夫作詞/阿部武雄作曲
1938年7月-『波止場気質』
島田磐也作詞/飯田景応作曲
1941年1月-『仏印だより』
小島政二郎作詞/飯田景応作曲
1942年5月-『南海の護り』
逵原実作詞/東條武士作曲
1943年3月-『潜水艦日記』
矢島寵児作詞/若倉晴生作曲
『妻恋道中』『流転』『裏町人生』『上海だより』辺りが代表曲だろうけど、“昭和のサムライ”としては、忠臣蔵に因むこの曲(↓)が一番相応しい気がする。
『徳利の別れ(赤垣源蔵の唄)』
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