埼玉県に住んだのは、生保が就職(1970年)先だったからだ。新聞広告を見て東京の本社で受験したら合格してしまった。本社採用に間違いないのだが、雇用保険上は埼玉西支社(川越)になっている。広告主がそうだったのだろう。そんなわけで、赴任地も川越→所沢→鴻巣と県内支社営業所を渡り歩き、1971~'75年は会社代用社宅で独り暮らす埼玉県民であった。
ペエペエ新入社員の時期ゆゑ、夜討ち朝駆け“月月火水木金金”でコキ使われた。それでも未だ若かったし、職場のみんなが同じ境遇なので特段の不平不満や疑問はなかった。そういう時代だったのだろう。たまの休日は、カネがなくてゴロ寝するばかり。なにせ調度品は、ソニーの14型カラーテレビとパイオニアのステレオコンポ(もちろんアナログ)のみ。埼玉県民という自覚などあろうはずがない。
さて、ご当地ソングは何が良いだろう。と言っても、大東京の衛星圏(県)に過ぎず、全国的に知られた歌など殆ど無きに等しい。強いて挙げれば、新民謡『直実節』(熊谷市)ぐらい。会社の宴席で必ず誰かが歌っていたので、自然に覚えてしまった。
『直実ぶし』-歌;二代目鈴木正夫、長瀬世紀子
栗原ひろし(元埼玉県知事)作詞/明本京静作曲
一、秩父の峰の雪白く 名も荒川の風寒し
ここ武蔵野の大里は 関東一の旗頭
直実公のふるさとぞ
(詩吟 「青葉の笛」)
一の谷の軍破れ 討たれし平家の公達あわれ
暁寒き須磨の嵐に 聞こえしはこれが青葉の笛
二、源平須磨の戦いに 花も恥らう薄化粧
智勇兼備の将なれば 敦盛の首討ちかねて
無常の嵐胸をさむ
三、人生うたた五十年 夢まぼろしに似たるかな
今は栄位も何かせん あまねく人を救わんと
その名も熊谷蓮生房
四、流れて早き年月に 武蔵野山河変わるとも
坂東武者の精神は われらが胸に今もなお
生きてぞ通う直実節
地元TV放送局テレビ埼玉(TVS)が開局したのは1979年。我がライオンズが福岡から埼玉へ移転した時期と符合する。自身は既に埼玉県民ではなく、東京郊外小平市に住んでいた。ただし、電波が届くのでTVS野球中継が視聴でき、球場にもよく通った。平和台型から所沢型へモデルチェンジの過渡期で、あたかもチーム低迷期にあった。東京キー局が中継することは皆無に近く、地区限定のローカル放送に過ぎなかったのである。後にパリーグの長期覇王となるが、絶頂期よりもむしろ低迷した時代のほうが懐かしい。同時体験者が少ないことから来るファンとしての優越心理かも知れない。
話が逸れた。野球を観なくなりTVSも視なくなって久しいが、当時なかったキャラクター「テレ玉くん」とともに、大きく様変わりしているようだ。
テレ玉くんのうた
「それは言わないお約束」→標準語“いわない”でなく“ゆわない”と埼玉方言なのがミソ。
テレ玉くんCM
好きだなあ、下心を感じさせないこうしたギャグ。
人気アイドルグループ【ももいろクローバーZ】とコラボしていた時期もある。
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