お題の曲名は、〝うるわしきてんねん″と読ませるらしい。明治35年(1902)に作られた傑作唱歌である。格調高い七五調文語体歌詞だが、戦後の教科書には載っていない。ゆゑに学校では教わってないし、歌詞も当然不知。ところが、メロディは聴き憶えがある。
美はしき天然(バイオリン編曲版)-1935年録音/再生位置25分45秒~
by 諏訪根自子(1920-2012年)
恐ろしく西洋風味で日本的とは言い難い演奏なtれど、諏訪さんで聴けるとは思わなかった。どうでもいいけど、アナウンサーも「うつくしきてんねん」と発してますね。次曲の『シューベルト/セレナーデ』を聴くがいい。恋愛未経験(多分)の15歳少女が奏でるやや硬いバイオリンの音色こそが、在りのままという意味で真に「天然」の演奏と言えよう。これとは矛盾するが、逆に66歳の時の録音『ベートーベン/春』(38分15秒)が素晴らしい。セーラー服姿の凛とした少女時代とは別人みたいに角が取れて円くなった演奏が堪らない。意外やこれが、戦時と平時とで異なる伝統的日本人気質なのかもしれない。
唱歌『美しき天然(別名『天然の美』)』
武島羽衣作詞/田中穂積作曲
一
空にさえずる鳥の声
峯より落つる滝の音
大波小波滔々と
響き絶やせぬ海の音
聞けや人々面白き
この天然の音楽を
調べ自在に弾きたもう
神の御手の尊しや
二
春は桜のあや衣
秋はもみじの唐錦
夏は涼しき月の絹
冬は真白き雪の布
見よや人々美しき
この天然の織物を
手際見事に織りたもう
神のたくみの尊しや
三
うす墨ひける四方の山
くれない匂う横がすみ
海辺はるかにうち続く
青松白砂の美しさ
見よや人々たぐいなき
この天然のうつし絵を
筆も及ばずかきたもう
神の力の尊しや
四
朝に起こる雲の殿
夕べにかかる虹の橋
晴れたる空を見渡せば
青天井に似たるかな
仰げ人々珍らしき
この天然の建築を
かく広大に建てたもう
神の御業の尊しや
この曲を採り上げたのは他でもない、歌詞が『古事記』に依拠しているように思えたからだ。「天然」の類似語に「自然」があるが、敢えて『美はしき自然』と名付けなかったところがミソ。
【天然(てんねん)】
人間の作為が加わっていないこと。
自然のままであること。
【自然(しぜん)】
人間および人間の手の加わったものを除いた、この世のあらゆるもの(万物)。
仏教用語- (1) おのずから,ひとりでに,(2) 事物の本性,仏教の真理,(3) 自然発生的な存在,(4) 特別な原因がなく万物は自然に生成変化する (無因論)
早い話、人間を含むのが【天然】で、人間を入れないのが【自然】と考えればよい。基督教の『旧約聖書』(=ユダヤ教典≒イスラム教コーラン)は「天地創造」で始まるが、或る邦人学者に依ると『古事記』も似た記述で始まるのだとか。ただし、やや異なるのが双方の冒頭の記述(書き出し)である。
旧約聖書→はじめに神は天と地とを創造された。
古事記→天地初めて発けし時、高天原に成れる神の名は、天之御中主神。次に高御産巣日神。次に神産巣日神。この三柱の神は、みな独神と成りまして、身隠したまひき。
つまり、天地の創造主を神とする『聖書』に対し、『古事記』の神は、天地の創造主ではなく、単なる存在として書かれている。件の学者は「天体の運行を司る因子を神に喩えたのだ」としている。『古事記』の成立が七世紀頃とされるから、秦氏=ユダヤ人説を採るならば、なるほど『聖書』の影響を窺い知ることも出来よう。
ここで重要なのは、『聖書』の唯一神が時空(時間と空間)を超えた存在なのに対し、複数神に喩えているものの、森羅万象を在りのままに伝えようとしたのが『古事記』と言える。我国では世界三大宗教のうち、唯一神(基督教・イスラム教)信徒が未だ1%未満のデータにも頷ける。仏教が多神教かは別にして、死者を須く「仏(ほとけ)」として敬う文化は釈迦の慈悲(慈しみ憐れむ)に通じる至高の他人愛に他ならない。
信徒でもないのにクリスマスを祝い、正月には神社へ初詣、葬儀は仏式で執り行う現代人を「節操がない」と訝る向きもあるが、自分はそうは思わない。「宗教」なんか意識せずとも自然に身に付いた習慣が、尽く【人道(「人権」ではない)』に適っているのだから。人道、剣道、柔道、華道、茶道、道場、野球道?、相撲道?、神道(かむながらのみち)etc.。我国は「権利・義務」で成り立つ西洋式契約社会でなければ、「争い・対立」を煽る唯物史観的ヒエラルキー(階級)型社会でもない。ましてや、米中覇権争奪戦に観られるような究極の利益体(ゲゼルシャフト)社会とも異なる。『古事記』に著された神代の昔から、互助互恵共存共栄を志向する共同体(ゲマインシャフト)社会なのですよ。
せっかくだから『古事記』に擬えると、我国=シラス、諸外国≒ウシハク、ですかね。
・シラス=万物を世の中の共有物とする考え方
・ウシハク=万物を主(あるじ=支配者)の所有物とする考え方
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【蛇足】
余談ながら、特亜三国(中韓北)が仕掛ける〝日本悪玉説的歴史論争″を論破するカギは、信仰心に行き着くと思う。我らには、神道と仏教に根ざした信仰心がある。当人が信者とは自覚してない(無意識)にも拘わらず。具体例としては、殺生が仏教で最も重い罪になることぐらい普通の大人なら程度の差こそあれ、みんな知っている。
一方の中国(支那)文化圏では、現代も含めてあらゆる宗教を弾圧して来たのが実態なのだ。宗教を「悪」とさえ断罪する彼らに、信仰心など宿るはずがない。あるとすれば「拝金主義」という名のカルト信仰だけだろう。ゆゑに、戦時中とは言え、殺生はもとより慰安婦を性奴隷にしようと、募集工(彼らの言う「徴用工」)を強制的にコキ使おうと、信仰や倫理道徳に基づく何らの自制も働かず、罪の意識など皆無に等しいのである。
「南京大虐殺」も「慰安婦問題」も「募集工問題」も、彼らの文化が産んだ無神論的妄想に過ぎないことが分かる。史上類を見ない一大濡れ衣(冤罪)事件と言わざるを得ない。彼らの非人道的体質(=米国の言う「ジェノサイド」;民族抹殺を企図する大虐殺)は、チベット人・モンゴル人・ウイグル人・香港人・台湾人への処し方に今なお受け継がれている。
我国に巣食う政財官学マスコミ界の媚中派どもこそ、まったく理解に苦しむ。快楽を得るため悪魔メフィストに魂を売ったファウストじゃないけれど、マネートラップ、ハニートラップに引っかかってタマ(「魂」です、あらぬ空想なさらぬよう。)抜かれたとしか考えようがない。因みに、彼国に於けるタマナシとは、「弱虫・役立たず」の代名詞とされる。
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