前稿で「乙女心」に触れたが。その何たるかを暗示するかのような曲がある。『十九の春』(1933年)と『純情の丘』(1939年)がそれ。
十九の春(昭和8年)
by ミス・コロムビア
西條八十作詞/江口夜詩作曲
ながす涙も輝きみちし あわれ十九の春よ春
すみれつみつつ散る白露に 泣きし十九の春よ春
君はやさしく涙は甘く 唄をうたえば花散りぬ
乙女振袖ゆく白雲も われを眺めて流れゆく
我世さみしと嘆くな小鳥 春はまたくる花も咲く
愛の光に夜はほのぼのと 明けて十九の春よ春
純情の丘(昭和14年)
by 二葉あき子
西條八十作詞/万城目正作曲
黒髪風になびかせて 夕陽にうたうアヴェ・マリア
乙女の夢はアマリリス 花のこころを知るや君
ひとりの友が泣くときは みんなで祈る夜の星
紫紺の空にたちのぼる 愛の調べを知るや君
嵐に髪はみだれても 血潮に靴はやぶれても
たがいに抱く純情の かたき誓いを知るや君
けがれを知らぬ白鳩の やさしく夢む幸福の
たのしい国は雲の果て 旅の心を知るや君
両曲とも西條八十作で、共通して「乙女」の語が出て来るから勝手にそう思うだけなのかもしれない。しかし、曲調からして”乙女”の胸中は、何処か憂いを含みそれを耐え忍んでいるかのよう。胸中を色に喩えれば「純白」、決して「桃色(ピンク)」なんかに染まってはいない。
まさに「純情可憐」と形容するにふさわしい。ところが、女性優位の現代社会にあって、この語は死語同然に変わり果ててしまった。逆説的にいうなら、長らく続いた「男性社会」が産み出した幻想だったのだろうか。
純情の丘(昭和38年)
by 高石かつ枝
青春歌謡ブームに乗ってリバイバルヒットした。未だ男性優位の世の中だったが、戦前のオリジナル盤に比べると、憂愁の翳りが薄まって幸福感が先行する曲調に変わっている。とはいえ、わりかし好きな盤ではある。
どうでもいいけど、「乙女」の類似語に「少女(”をとめ”とも読む)」「生娘(きむすめ)」「小娘」「小女(”しょうじょ”または”こをんな”)」「処女」などがある。語源を辿ると【乙】には若々しいの意があるとか。「処女」は【家に処(い)る女=俗に言う「箱入り娘」】から出たらしい。「生娘」と「処女」はほぼ同義に遣われる。「小娘」は”未熟な十四五歳の若い女”という意味で、「小女(こをんな)」にも”下働きの若い女=女中”の意があって、どちらもやや嘲った言い方になる。
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