本田圭佑が日本の教育体制に提言
「根本的に間違っている部分がある」
2/24(水) 0:34配信/東京スポーツWEB版
サッカー元日本代表MF本田圭佑(34)が日本の教育体制に疑問を投げかけた。
23日に自身がパーソナリティーを務めるニッポン放送「本田圭佑『NowVoice』」(火曜午後7時)に出演。現在は投資家としての一面を持つが、当初はお金のことについて「何も知らなかった」という。「ビジネスに携わるきっかけを得てから、右も左も分からないまま会社を作って、サッカースクール立ち上げて、投資もし始めて、というのもみんなゼロからで何も分からなかった」と振り返る。
そのため「もしかしたら不必要だったかもしれない失敗もたくさんした」とコメント。続けて「それってもっと教育で事前にそういうノウハウがあれば、避けられたと思う。次世代のスポーツ選手にはそうなってほしいと思う」と訴えた。
「日本の教育が根本的に間違っている部分があるなと思っていて、お金のことを小さい時から、義務教育の時から教えるべきだと思う」
果たして本田の提言は全国の“教育者たち”に届くだろうか。
コメント総数;276(7:00現在)
💮.本田さんは教育コンプレックスの塊。
今の義務教育が完璧とは誰も思ってはいない。
百歩譲ってお金の大切さくらいなら触れていいが、金儲けを義務教育から叩き込むなんてどうかしてる。
義務教育下だって学力に差がこんなにある。
同じことを教えたとしても理解度が同じじゃないんだし、必要としない人にとったらどうでもいい話。
理解度が違うのに金儲けが人生の成功者と刷り込まれたら、悪いことをしてまで金儲けをしようという輩は増える気がするな。
金儲けこそ人生の成功と捉えるひとにとったら、それは必要なものだから自然に自ら学び身につく。
お金について義務教育で何も教わらないでいたから、ビジネスで失敗したのではない。
必要な準備を自らがしなかっただけ。
「何か新しいことにチャレンジするなら、人・もの・金・情報など必要な準備をしなさい。」と教えるのが教育では?
本田さんは根本的に間違っている。
イ.資本主義を選んでおきながらお金儲けにあまり良い印象を与えない教育は間違っている。
国民はお金に関して無頓着の方が労働者として使い易いし、税金も取り易いから国が教えないなんてマンガがあったな~
お金は公平な道具なのだから、その使い方をしっかり教えてあげないとダメ。
漢文より大事wそれは冗談だけど、道具として便利だから人が使ってるという大前提をちゃんと解ってないと、道具に使われる人間になっちゃう。
ロ.「義務教育が間違っている」
あなたが言うと、自分の思い通りにならない事を他人に責任転嫁してるようにしか聞こえない。
労働した事ないのに「日本人の働き方は〜」とか、平気で語り出す。
日本の義務教育を否定するほど、学校で勉強してないだろ?
ハ.会社の作り方やビジネスの進め方はたしかに教えない。ただ商業高校とかでは教えるんじゃないの?本田は星稜に進んだし、サッカー特待生だった。そういう生徒は勉強よりサッカーだよね?勉強したかったら大学まで行ってからプロになっても良かったけど、本田がその道を選ばなかっただけじゃない?それを制度のせいにされてもね。
二.経済学はそれぞれ違うから義務教育では教えられないだろ。
大体、清々しいを きよきよしいと読む人に
義務教育について根本から間違えてると言われてもね。
義務教育、身について無いやん。
ホ.「果たして本田の提言は全国の“教育者たち”に届くだろうか」と書くということは、この記事はその主張を正当なものだと認識しているということですね。でも、お金に限らず何かに失敗したら教育のせいだと言う、これ無責任がすぎませんか?彼の場合は自分の口ほどには評価が高くないようですが、これも教育のせいですか?(色々な意味で)
教育学を専攻した者として、こうした話題は大好物ですね。我国の戦後教育が間違っている点には同意するが、本田圭佑氏の提言に名を借りた身勝手な主張こそが、「間違った教育」を施した結果だと思う。東スポの記事に否定的なコメントが多いのも当然だろう。 💮を付けたコメントが、コトの病巣を抉り出しているのではないか。
要するに、教える側(一定の影響力まで否定しない)の問題というより、学ぶ側の学習意欲や知的能力に比例して、それが結果に顕われるということ。それだけの話だ。
毎度昔の話で恐縮だが、小四時分(昭和32年)、担任から「学校は社会へ出るための道場だ。今のうちに揉まれておけ。」と言われた。確か海軍出の先生だったと思う。日教組に背を向けた軍人上がりの先生が居る一方、バリバリの日教組若手教員も多数混在していた。凡そ若い先生は優しかった。逆に、年長教師は概ね厳格であった。が、児童たちが慕っていたのは、むしろ怖い先生のほうだった。意外に思われるかもしれないが、子供は理性(理窟)に乏しい分、動物本能的感性が鋭い。
当時、喧嘩は日常茶飯事で、かつ暗黙のルールがあった。1.弱い者いじめは御法度 2.武器使用不可(但し女児は小石投げの応戦OK) 3.強者(上級生など)に挑むことはむしろ奨励(?)された まぁ、子供だから「消しゴム盗った盗られた」と他愛ない理由で取っ組み合いになる。やがて、【仲裁は時の氏神】とばかりに、先生のご登場である。怖い先生ほど場慣れしてるせいか、双方が納得できる取りなし方が上手い。ダメなのが普段は優しい先生。自信無げにオロオロするばかりで、裁定の決断力も鈍い。自立できない子供にとっては、常に後ろ盾が欲しいのだ。家では親が居るが、学校には先生をおいて他にない。何となれば、頼もしい先生に自然と懐くのが道理だろう。
<ご参考>どちらが強いかが問われる。弱虫に見られたくないから、自分のほうが強いと強弁するに決まっている。そこで「1」のルールが適用される。つまり、強者面をすればするほど悪者になってしまうパラドックスである。思いもよらぬ結末で一件落着。
悪知恵の働かない子供の心理を逆手に取っただけで、学問とは何の関係もない。しかし、こうした頓智というか機転(気転ではない)は、教えられるものではないし、教わって身に着くものでもない。それこそ、学び取る以外にない。教育というより躾けの範疇かもしれない。
もちろん「弱い者いじめ」が今なお根絶されたわけではない。けれども、それを悪いことだと身に浸みて分かったし、見て見ぬふりすれば卑怯者の謗りを免れないことも学んだ。少なくとも当時の学校全体が、「弱い者いじめ」を悪とする気概に溢れ、それぞれの立場で懸命の努力を続けていたのは間違いない。誤解のないように断わっておくが、「喧嘩(暴力)を無くせ」ではなく、「弱い者いじめ」を無くせ、ですからね。
極論になるが、教師に役割を担わせるとすれば、担当学科を教える日課のほかは、有事に際して大岡越前か遠山の金さんを演じていればよいのではないか。
戦後教育最大の間違いは、教育者本位の「教える」ことと被教育者本位の「学ぶ」ことの主客を転倒している点だと思う。昔の剣術指南、職人技を想い起してみるがいい。凡そ師匠たる者、決して弟子たちに「教える」ことはしない。〝上達したければ自身で掴め″と突っ撥ねるばかり。暗に「学び取れ」と言ってるわけだ。剣豪宮本武蔵に剣術指南役(師匠)は居ない。二天一流は独自の流派である。想像の域を出ないが、戦前教育は「教える」ことより、如何に「学ばせる」かに心を砕いていたのだろう。
戦後は「教室」と言い換えられるようになってしまったが、その昔(古語=大和言葉)は「学舎(まなびや)」という的確な語があったはずである。肝心要の国語(所謂「日本語」)からして、外来思想に毒されてしまっているのが戦後教育なのだ。御先祖様に申し訳ない、と思わずにいられようか。
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