トランプ氏めぐる「人権」論争
利益求める国際政治の本質とは
2021.2.17配信/夕刊フジWEB版
2月12日、春節祝賀会で演説した習近平国家主席は、「背筋が凍るような激変に見舞われたこともあった」と1年を振り返った。
コロナ禍を指したものなのか、米中関係のことなのかは不明だが、やはり相当大きなストレスにさらされた1年だったのだろう。正月を前にチラリとのぞかせた本音だ。
前日にはジョー・バイデン大統領との初の電話会談も行われた。日本のメディアは早速、〈バイデン氏、香港やウイグル、台湾で懸念伝達〉と横並びで伝えたが、一方の中国メディアは〈米中両国は衝突を避け、気候変動など幅広い分野で協力すべきで、米国側は中国側と相互尊重の精神に基づき、率直かつ建設的な対話を展開し、相互理解を増進し、誤解・誤った判断を避けたい」と話した〉と別角度から報じた。
相変わらず両方を見なければ本当の中身は分からないようだが、日本の報道によれば、下馬評の如く人権問題で早速バイデン節が炸裂(さくれつ)したようだ。
しかし不思議なことにネットでは「トランプこそが人権派」との真逆の珍説が飛び交い、ジャーナリストの池上彰氏が攻撃されているという。
ならば政策の優先度を考えて比較すべきで、ドナルド・トランプ氏は習氏との最初の会談で「人権」に言及したのだろうか。
答えは否。それどころか「私は中国が発展の中で勝ち取った歴史的な成果に敬服した」とした上で「私たちの二国間関係を歴史的にも新しい高みに押し上げられると確信する」と語っている。香港問題もウイグル問題も既に存在する中での発言で、彼我の差は歴然だ。
当時の新聞には大統領就任当初のトランプが、ロシアのプーチン大統領や習近平的政治スタイルを礼賛したとの報道もあふれている。
実際、「新疆ウイグル自治区の教育施設を建設してる」と説明した習近平に対し「いいことじゃないか。どんどんやってくれ」と発言した主だ。それが後になってウイグルの人権問題でジェノサイド認定するのは、米政治誌『ポリティコ』が報じたように選挙対策の流れと切り離せない。
言うまでもないが、米国に利益のない関与など国際政治にあろうはずがない。日本人はなぜ学習しないのか。
そもそも他国のトップが他国の人権問題にどれほど真剣かで日本人が日本人を攻撃して内紛の種をまく不思議な現象を、戦略に富んだ大国がどれほど冷ややかな目で見るのか。それを考えると、恥ずかしいと同時に背筋が寒くなるのだ。
■富坂聰(とみさか・さとし)
拓殖大学海外事情研究所教授。1964年生まれ。北京大学中文系に留学したのち、週刊誌記者などを経てジャーナリストとして活動。中国の政・官・財界に豊富な人脈を持つ。『中国人民解放軍の内幕』(文春新書)など著書多数。近著に『中国は腹の底で日本をどう思っているのか』(PHP新書)。
おのれの認識とは全く正反対の論調である。グローバリズムに批判的な夕刊フジが、(皮相な観方でしかない)大国コンプレックスに凝り固まったような記事を敢えて載せた理由が知りたい。想像の域を出ないが、おそらくジャーナリズムとしての公正・中立を意識した良心的な「両論併記」なのだろう。
執筆者のスタンスは、結語部分に顕著である。要するに、国際関係を含む世の中は所詮算盤尽くというゲゼルシャフト(利益体)的思考に染まっているところに氏の限界があるということだ。個人的には、こうした人を西洋被れ或いは中共被れと呼んでいる。我国古来の思想に照らせば、脳内がウシハク(主履く)に汚染されている証拠ともいえる。どうやら神代の昔から連綿と受け継がれてきた我が國體(こくたい=くにのかたち)の核心たるシラス(治らす)思想がお分かりになってないらしい。
「治らす」「主履く」の語は、『古事記』に記述があるだけで、思想として出て来るわけでもない。但し、後の古国号『大和国(おおいなるやわらぎのくに)』で分かるとおり、和(やわらぎ)に最高価値を置く国家建設に取り組んだことが窺える。
治らす(我国の古代国家形態)
万物を所属員の共有物とする認識
主履く(大国主命統治下の出雲国)→大和(おおやまと)日高見国に国譲り
万物を主(あるじ)の私有物とする認識
ここで重要なのは、「主履く」が戦争に負けて屈服させられたからではなく、戦わずして自ら「国譲り」を選択したことである。つまり、万民のためには「治らす」のほうが望ましいと悟り、「治らす」に悦服(悦んで従う)したのだ。ここが、歴代征服王朝を戴いて来た諸外国とは決定的に異なるところである。「治らす」の根幹にあるのが〝和(やわらぎ)の精神″ということになる。『論語』にも〝和して同ぜず″というのがあるが、そうした儒教的道徳とは似て非なるのが〝和の精神″なのだ。
つまり、「和」を乱す事態を考えたとき、争い事や対立であることぐらい誰でも気が付く。ところが、「治らす」の凄いところは、だったら争い事や対立の原因となるタネを撒かなければいいじゃないか、と考えた。このタネを現代風に言えば、「独裁」「独占」「独善」などに行き着いた。したがい、我国は「権威(天皇)」と「権力(為政者)」を分離し、国民を天皇の大御宝と位置付けて、権力に生殺与奪を握られない(権力からの自由)ような独自の仕組み(國體)を構築したのである。この國體は神代の昔から今日まで一貫して変わっていないのだ。因みに「対立(たいりつ)」という漢語も、大和言葉(古語)では、意味が全く異なる「ならびたつ」と訓読みしたという。
皮肉なことに、自称「知識人・有識者」(断わっておくが富阪氏個人を指す謂いではない)が日頃小バカにしている一般庶民(大衆ではない)のほうが、理窟(頭で考える)ではなく、皮膚感覚(暮らしの実感)で身に付けている分、決して思想信条の軸がブレない(=扇動されない・情況に流されない)。『トランプ・バイデン人権派論争』然り、『森前会長発言問題視』然り、『中共文化大革命』然り、何れも独裁・独占・独善を目論む主履くどもに都合のよい論理ではないか。権力や欲得とは無縁なるがゆゑに、誰を利するか(=敵か味方か)を直感的に見抜く能力に長けているのだ。
《ご参考》
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