プロ野球を観なくなって久しいが、興味が失せたわけではない。そんななか、次のような記事を眼にした。
背番号に宿る不思議な力
1/17(水) 11:03配信 週刊ベースボールONLINE
「524133974276」
この12ケタの数字が意味するものは何か?
「5」「24」「1」「3」「39」「7」「4」「27」「6」
答えは当時のレギュラー野手が背負っていた番号をスタメン順に記したものだ。
一番・辻発彦、二番・平野謙、三番・秋山幸二、四番・清原和博、五番・デストラーデ、 六番・石毛宏典、七番・笘篠誠治、八番・伊東勤、九番・田辺徳雄
圧倒的な強さを誇った当時の主力たちの背番号は、私の頭の中に強く焼きついた。
「プロ野球選手にとって背番号はもう一つの顔である」とはよく言ったものだ。冒頭の12ケタは今でもそらんじることができる。
背番号がモチベーションになることも、よくあることだ。
例えば松井稼頭央(西武)。今季、西武に復帰し、当時着けていた「7」をふたたび背負うが、PL学園高から入団時は「32」だった。ただ、ルーキー時代から自分の好きな数字を着けたい気持ちが強かったという。
「僕は奇数が好きなんです。なぜ? と聞かれたら困るんですけど、特に『1』『3』『5』『7』という数字が好き。だから、若手のころ、いろいろ考えていました。『1番でショートはカッコいいなあ、ショートで3番は違うかな』とか」とかつて話してくれたが、そういう気持ちを持ち続けたことも、野球に取り組む原動力になっていたという。
“言霊”ならぬ“数霊”。背番号には不思議な力が宿っているような気もする。
文=小林光男 【以上、抜粋して転載】
生来の西鉄ファンだったこともあり、現在はその衣鉢を継ぐ西武を応援しているわけで、見出しを見ただけでピンときた。今や永久欠番の「24(稲尾和久)」は平野選手が着けていたんだ。しかし、自分にとっての『想い出の背番号』となると、昭和30年代前半の西鉄黄金時代だなぁ。西武埼玉ライオンズ球団公式サイトに、【背番号の歴史】というコーナーがある。それによると、昭和30年(1955年)の背番号は、
5・・・仰木彬(二塁手・打順1番)打率.235・打点39・本塁打15・盗塁22
24・・・八浪知行《永久欠番の主「稲尾和久」は翌昭和31年入団》
1・・・今久留主淳(三塁手・代打要員)打率.258・打点11・本塁打1・盗塁0
3・・・大下弘(右翼手・打順4番)打率.301・打点63・本塁打12・盗塁7
39・・・田島定(まったく記憶にない選手)
7・・・豊田泰光(遊撃手・打順2番)打率.275・打点76・本塁打23・盗塁27
4・・・該当選手なし
27・・・関口清治(左翼手・打順5番)打率.298・打点66・本塁打14・盗塁11
6・・・中西太(三塁手・打順3番)打率.332・打点98・本塁打35・盗塁19
このほか、レギュラー野手の背番号は、
9・・・河野昭修(一塁手・打順6番)打率.244・打点28・本塁打3・盗塁17
25・・・高倉照幸(中堅手・打順7番)打率.276・打点71・本塁打17・盗塁33
12・・・日比野武(捕手・打順8番)打率.232・打点29・本塁打1・盗塁3
右翼ゴロを放つなど、超鈍足で有名な日比野選手でさえ3盗塁。打って走れる選手が多かったみたい。当時の人気スター選手は何といっても中西選手。少年野球の同級生は、投手ながら背番号「6」を背負っていた。因みに中西選手と同体型の“おかわり君”こと現役中村剛也選手の背番号は「60」だが、ひょっとして中西選手に肖ったのかも。
当時DH制などないから打順9番は投手が打席に立った(希に打順8番に上がることも)。その投手陣は、
15・・・河村久文/投球回数279.1/3・21勝9敗・防御率2.35・奪三振225・完投10
16・・・大津守/投球回数255.2/3・21勝10敗・防御率2.50・奪三振116・完投11
20・・・西村貞朗/投球回数268.1/3・19勝6敗・防御率2.41・奪三振191・完投6
18・・・島原幸雄/投球回数60・2勝2敗・防御率3.15・奪三振34・完投2
21・・・川崎徳次/投球回数217.2/3・17勝15敗・防御率2.39・奪三振88・完投8
33・・・有吉洋雅/投球回数96.2/3・6勝4敗・防御率2.88・奪三振52・完投2
懐かしいなぁ、あの頃。
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