野球に興味を抱くようになったのは何時頃だろう? 少なくとも小一時(昭和29年)に箱田弘志二塁手(国鉄)と同姓の級友を憶えてるくらいだから、ずいぶん昔のことである。福岡生まれの九州育ちゆゑに、言わずと知れた西鉄ファン。よく父親に連れられて平和台球場に通った。西鉄クリッパース時代やセ・リーグの西日本パイレーツのことは、後年「歴史」を知るのみで実際に眼にしたことはない。いや待てよ、春日原球場での試合を観たことあるぞ。とすると、昭和28年には5歳にして観ていたことになる。
西武になって所沢へ移って来た時(昭和54年)は、既に埼玉(所沢・鴻巣)が勤務地でなかったものの、西武新宿線花小金井駅近くの代用社宅住まいだった誼で律儀に応援を続けていたし、球場(所沢)にも足繁く通った。根本監督時代の最も弱かった頃の話である。最近は、球場へ行かないばかりか、テレビ観戦もしなくなって久しい。熟々考えてみるに、西武(鉄)が弱くなったせいばかりでは必ずしもない。要するに、野球が「野球」でなくなったからである。わかりやすく言うなら、日本のプロ野球界全体が米大リーグの「二軍」と化し、「野球」というより「ベースボール」の“草刈り場”に成り下がってしまったことが大きい。
日本の「野球」が《実力》以外の《頭脳》や《技》を駆使して弱いチームが強者を倒す意外性に妙味があるとすれば、「ベースボール」はただ精一杯投げて力一杯打ち返すだけのシンプな勝負に過ぎない。大リーグには、大差のついた試合でバントや盗塁は御法度とする不文律があるらしいが、こんな「算盤勘定」が「真剣勝負」の醍醐味を削いでしまうのですよ。高校野球が何故面白いか。負けが許されないトーナメント戦だから、攻める側は貪欲に点を取りに行くし、守る側は1点もやるまいとするからに他ならない。
嗚呼、昔の「野球」が懐かしいなぁ。そんなわけで、何の根拠もないが昭和30年(1955年)のパ・リーグ球団を振り返ってみよう。御贔屓西鉄と対戦していた他チーム事情も結構知ってますですよ。まずは、西鉄ライオンズから。
守備 | 野手名 | 背番 | 打率 | 打点 | 本塁打 |
二 | 仰木 彬 | 5 | .235 | 39 | 15 |
遊 | 豊田 泰光 | 7 | .275 | 76 | 23 |
三 | 中西 太 | 6 | .332 | 98 | 35 |
右 | 大下 弘 | 3 | .301 | 63 | 12 |
左 | 関口 清治 | 27 | .298 | 66 | 14 |
一 | 河野 昭修 | 9 | .244 | 28 | 3 |
中 | 高倉 照幸 | 25 | .276 | 71 | 17 |
捕 | 日比野 武 | 12 | .232 | 29 | 1 |
中谷 準志 | 2 | .295 | 43 | 8 | |
塚本 悦郎 | 29 | .224 | 23 | 2 | |
今久留主淳 | 1 | .258 | 11 | 1 | |
永利 勇吉 | 10 | .184 | 13 | 5 | |
玉造 陽二 | 54 | .225 | 9 | 0 | |
玉木 春雄 | 45 | .207 | 6 | 2 | |
大和田 明 | 56 | .212 | 4 | 0 |
投手名 | 背番 | 投回数 | 勝敗 | 奪三振 | 防御率 |
河村久文 | 15 | 279.1 | 21- 9 | 225 | 2.35 |
大津 守 | 16 | 255.2 | 21-10 | 116 | 2.50 |
西村貞朗 | 20 | 268.1 | 19- 6 | 191 | 2.41 |
川崎徳次 | 21 | 217.2 | 17-15 | 88 | 2.39 |
島原幸雄 | 18 | 60.0 | 2- 2 | 34 | 3.15 |
有吉洋雅 | 33 | 96.2 | 6- 4 | 52 | 2.88 |
長坂 衛 | 17 | 53.1 | 1- 1 | 18 | 4.17 |
流石は贔屓チームだけあって、レギュラー選手は背番号とともに全員憶えている。記憶と違うのは打順と守備位置。高倉(中)→仰木(二)→大下(一)→中西(三)→豊田(遊)→関口(左)→玉造(右)→(投手)→日比野(捕)とばかり思い込んでいた。なかでも強く記憶にあるのが、日比野捕手の恐るべき鈍足。ヒットと思いきやライトゴロに倒れるのを一度ならずも数回目撃している。控え選手も今久留主や中谷は出場機会が多くてわりかし記憶がある。大和田明捕手は、日比野や和田博実の陰に隠れて目立たなかったものの、後年広島カープへ移籍し、外野の中軸打者として開花する。但し、西鉄時代の記憶はほとんどない。
*ご参考*
西鉄ライオンズ選手名鑑(昭和32年)
コメント