単なる推測で恐縮だが、テレビドラマや邦画の価値観倒錯は1970年(昭和45年)頃に始まる。あくまでブラウン管や銀幕上の“作り話”だから、世の中までそうなってしまったかどうかはわからないし、またそれが論旨でもない。しかし、少なくとも平成(1989年~)の御世になって以降のドラマ・映画は、ほぼ観る気が起こらない。それほど自身の実生活や価値観とは懸け離れてしまった、ということである。
勢い番組録画でも、昔の古いドラマ・映画ばかりになってしまう。昭和期までの時代劇なら、まだ何とか観賞に堪えうるものもないではないが、現代劇となると皆無に等しい。古い物を高く評価するのは、懐かしさばかりではない。制作者の作品に対する深い愛情を感じるし、視聴者と同じ目線で作られていたように思う。
例えば8月11日付記事で触れた『3人家族』(昭和43年)。映像があればよいのだが、そうはいかないので該当箇所(第七回)を台詞興ししてみた。
会社の海外留学第一次試験が終わって、生ビールを飲みながら
会社の同僚佐藤(遠藤剛)「だんだんバラバラになるよ」
雄一(竹脇無我)「何が?」
佐藤「一緒に入った連中さ」
雄一「うむ、三年も経つとな」
佐藤「これで俺とお前も差が付くか」
雄一「どうしてわかる?」
佐藤「出来る奴が受かるのさ。公平な話さ」
雄一「よせよ」
佐藤「いや僻みじゃないんだ。この頃、よく考えるんだ」
雄一「ん?」
佐藤「試験ノイローゼかもしれないがね」
雄一「何だよ」
佐藤「仕事が出来るか出来ないかで人間を決めることに腹が立つんだよ」
雄一「お前はやり手じゃないか」
佐藤「俺のこと言ってんじゃないさ」
雄一「それで?」
佐藤「仕事が出来ないとダメな奴に見えてくるだろ。月給が安いとバカな奴に見えてくるだろ」
雄一「一概にそうとも言えないさ」
佐藤「本当か?」
雄一「そりゃそうさ、人間の価値は仕事では決まらない」
佐藤「じゃ、何で決まるんだ?」
雄一「そうだなぁ・・・」
佐藤「ハハッ、そうなんだ。考えちまうぐらい、俺たちは仕事の能力で人を判断してんだ」
雄一「教えてくれよ」
佐藤「俺にもわからん」
帰宅後食事しながら
雄一「ねえ、お父さん」
父耕作(三島雅夫)「ん?」
雄一「人間の値打ちっていったい何かね」
耕作「何だいきなり」
雄一「ハハッ、道々考えたのさ」
耕作「さあなあ」
雄一「仕事の能力だけで決められないよね」
耕作「うむ」
雄一「努力する奴が一番偉いというわけでもないし・・・」
耕作「どうかしたのか」
雄一「いやぁ、友達がそんなことを言い出してね。巧い答えが見つからなかったんだ」
耕作「そうだなあ」
雄一「いきなり言っても困るだろうけど・・・」
耕作「フフッ、しかしな。儂もそんなこと考えないでもないからな」
雄一「それで?」
耕作「うむ、他人の気持に何処までなれるか、ということじゃないかな」
雄一「ふ~ん」
耕作「いや、儂も難しいことはわからん。ただ、そんな風に考えたこともあったよ」
雄一「思いやりか」
耕作「うん」
他にも母子家庭のほうでは、【女の価値】に関する会話が出てくる。要するに、ドラマの本筋とは関係ないものの、登場人物の性格や考え方を浮き彫りにするよう念入りに作られているのである。しかも、物の観方・考え方がそれぞれ微妙に違っており、金太郎飴みたいな同系人物は一人として登場しない。従って、自身(視聴者)がどのタイプを好むかによって劇中に没入できるというわけ。
【人間の価値】なんて、毎日の生活に追われ滅多に考える機会もないが、実際は“自分だけの物差し”があって、知らず知らずに【(人間の)品定め】をしてはいまいか。良し悪しが言いたいわけではない。無意識のうちにも、人間誰しも何らかの判断基準を持っていることを指摘したまでである。
それが、昨今のドラマになるとどうか。主人公を通した制作者側の一方的な価値観押し付けが目に余る。おのれの考え方に合致してればよいが、そうした番組は皆無である。
なお、余事ながら、更新を怠けている我がホームページに、【人間の価値】に関わる記事があったので、酔狂な方はどうぞ。
コメント