昨12日(水)は、個人的にとんでもない一日だった。いや、直接には何の被害も被っていない。けれども、今月末から計画しているタイ旅行で搭乗予定の飛行機が、あろうことか二機とも欠航したのである。羽田→福岡間の国内線NH255と福岡→バンコク間のTG649。
特にTG649の場合、前11日(火)から最新機種B787-8での運航が始まったばかり。しかも当日朝、バンコクからのTG648(機体記号HS-TQC;10月末に納入されたばかりの最新機材)は何事もなく福岡空港に到着しているのに、である。
ANAのWEBで調べたところ、NH255は機材繰りが出来なかった模様。だが、TG649の情報が乏しく“CANCELLED(欠航)”とあるだけ。欠航理由がわからなければ、余計に不安が募って仕方ない。尤もこのB787-8、ANAやJALが世界に先駈けての飛行直後、何かとトラブル続きだった機種ではある。最初にアヤがつくと、どうもいけませんなぁ。
さきほどflightradar24で確認したら、本13日(木)のTG489は機体記号HS-TQB(9月受領の2号機)とあった。するとHS-TQC(3号機)は未だ福岡空港(昔は板付飛行場と呼んでいた)で眠っているのだろうか。余事ながら、HS-TQA(7月受領の1号機)はここ数日飛んでないようで、定期整備なのかなぁ。これらが影響してか、本来ならB787で運航される成田-バンコク間のTG641とTG643も、A340-600やB773-300ERに急遽機種変更されている。
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他人様には関係ない話題はこの辺りで切り上げ、昨日付記事で省略した部分を補足しておこう。
映画『三丁目の夕日』(2005年)を観て違和感がある、とまで書いたが、その最たる例が登場人物の《価値観》である。《懐メロ》に喩えると、【歌は世に連れ】と言うが、まさにその通り。オリジナル盤を知る者にとって、後年のステレオ再録音盤には違和感がある。なぜか? “時代の空気(雰囲気)”が違うからである。映画とて同じ、舞台を昭和33年に設定したところで、平成17年に撮られた映画だから、どうしても平成17年の世相が随所に顔を出してしまう。
とかく見過ごしてしまいがちな場面がある。その一例が、青森から集団就職(今や死語?)で上京した星野六子(堀北真希)が、勤め先の(有)鈴木モータースを初めて観たときのリアクション。おもしろおかしく見せるための演技だろうが、昭和33年の「少女(乙女)」にあるまじき、アメリカニズムに毒された“飽食の時代”を生きる今時の「女子(じょし)」そのものと言ってよい。
話が逸れるが、個人的にこの「女子」とか「なでしこジャパン」「侍ジャパン」といった言い方が、どうも気に食わない。なるほど競技やトイレ(昭和33年なら“便所”)等では「女子」が充てられる。だが、普段は相対して「女子」と呼ぶことはない。それと一般には、「女児(女の子供)」を連想する語であり、“おなご”と読めば「女中」「下女」といった意味もあるらしい。尤も、言葉なら文字判別できない分、「女史(見識や教養が豊かな女性)」と勘違いされて良い気分にさせるかも。いや待てよ、「女子」と「女史」では語調(イントネーション)が違うな。
「なでしこジャパン」「侍ジャパン」の場合、外来語があるだけで気色悪い。“大和撫子”とは日本女性の清楚な美しさを誉め称える美称であって、スポーツ競技に当てはめるのは無理がある。また“侍”とは、確かに人並み外れた超高技能を有する者を指す語でもある。しかし、今年のワールドカップサッカーみたいに、一つも勝てないようでは「侍」の名を却って辱めようというもの。軽々しく“安売り”などして欲しくない。どうして普通に「日本代表」「全日本」ではダメなのか。
本題に戻そう。では、実際の昭和33年社会人一年生少女だったら、どんな反応を示したろう。何より集団就職は、中学卒業生(義務教育修了者)で大半を占めていたのが実情。地方へ行くほど高校進学率は低く、とりわけ女子(文字通り)であれば高等教育など必要ない、との風潮があった。従って高卒の星野六子なら、地方に在りながらも恵まれた環境で育った部類に属する。
そんな少女が、みすぼらしい職場或いは予想と違う仕事というだけで幻滅するだろうか。職業は選ぶというより、与えられた職業に馴染むほうが先決だった時代である。身体に合わない服なら、身体のほうを合わせるようにして着た時代でもある。まずは仕事に慣れて、早く一人前になろうとだけ考えていたことは想像に難くない。
タイムマシーンに乗って、本当の「昭和33年」に星野六子が現れたとしたら、世の人々は遠巻きにして奇異な視線を浴びせかけるに違いない。半世紀を隔てた昭和33年と平成17年では、それほど物の観方・考え方が変化してしまったのである。
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