気にしていたタイ国際航空(TG)のB787-8たちは、本来の運航に戻ったようである。あぁ、よかった。
* 保有三機の本日(15日)の機材割り振り
☆ TG641(成田→バンコク;HS-TQB;9月導入2号機)
☆ TG649(福岡→バンコク;HS-TQA;7月導入1号機)
☆ TG643(成田→バンコク;HS-TQC;10月導入3号機)
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さて、平成17年と昭和33年では世相が違うと言いたいために前稿で、昭和33年を舞台にした映画『三丁目の夕日』(平成17年)の登場人物星野六子を槍玉にあげてしまった。しかし、演じた堀北真希さんには何の咎もない。何ぶんにも御生誕以前の物語ゆゑ、役柄に成りきりたくても、どうしたら良いのか皆目見当が付かなかったであろう。
堀北さんにとっては確かに知らない「時代」かもしれないが、原作者の西岸良平は私奴と同学年(つまり、昭和33年時小五)だし、プロデューサーも二歳年下だけらしいから、彼らがカバーしてやらなくっちゃ。とは言え、改めて制作スタッフ・主な俳優の顔ぶれを見ると、監督を始め、みなさん昭和33年には未だ生まれてなかった若い(?)人たちばかり。無理もない。
同じことが「時代劇」にも当て嵌まる。無論、それだけが原因ではあるまいが、時代劇映画・ドラマの制作数が激減しているらしい。
ここで、またぞろお得意の『鬼平犯科帳』を持ち出しますよ。四代にわたる鬼平のうち、初代鬼平松本幸四郎(八代目)版(昭和44年)を高く評価するのは、リアルタイムで視た記憶の懐かしさだけではない。もとを正せば戦後派時代劇なるも、戦前・戦中を知る制作スタッフ・俳優たちが多数関わっていたためか、消え行く“伝統的時代劇”の残滓が色濃く反映しているからだ。
着物(和服)の着こなし、立ち居振る舞い、礼儀作法、身分の上下関係。どれ一つとっても、当時(江戸時代)は多分こうだったに違いない、と納得させるに十分な時代考証である。頭で考えた「演技」でなく、日頃から身に付いている所作ゆゑに、自然な姿に映るのだろう。
それに、昭和44年は自信ないが昭和33年であれば、江戸時代生まれの方々がまだ一定数ご存命だった頃である。下手に撮ろうものなら、瞬時に見抜かれてしまうこと必定。当時の時代劇映画・ドラマ制作スタッフは、そんな緊張感を以て仕事に臨んでいたのだと思う。
そこでだが、今を生きる我々「現代人」は、「過去」(大袈裟には「歴史」)について、当然のように“非文明的で遅れた時代”であったかのように思い込んではいまいか。時代を遡れば遡るほど、その意識がいっそう強くなりはしまいか。斯く言う私奴とて例外ではなかった。
ところが今から15年ほど前の或る日、小学校卒業文集(昭和34年度)を読み返していたら、女先生(音楽・家庭科等の授業を受けた)の文章に行き当たった。そして、実は単なる錯覚に過ぎず大変な間違いであることに気づかされたのである。
御卒業おめでとうございます。
早いものですね。あれからもう三年もたってしまったとは。今はみなひょろひょろのびて最上級生になりすましているけど、あの頃はずいぶんちびだったですよ。がやがや、わあわあ言って全校で一番あばれんぼうだった。それがもうすぐ中学生、楽しみなような、そして又、何となく不安な気持でいられることでしょう。人生の一つの区切りとして、新しい気持で卒業入学を、有意義な物にしていただきたいと思います。
「人間は考えるあしである。」
といった人があります。今のような科学が発達し考えなくても生きていける世の中で、やはり人間らしく生きることは考えることだと思うのです。どんな時でも、最後まで真面目に考え抜く人。こんな人になっていただきたいと思います。
(原文は縦書き;段落分け以外原文のまま)
《人間は考える葦である》は、【パスカルの原理】で知られる17世紀フランスの学者ブレーズ・パスカルの言葉。しかし、誰の言葉かはどうでもよく、それが仰りたかったことの要点ではない(と思う)。先生が意図したかどうかは不明だが、太字強調下線部分(引用時付加)に、それこそ『考えるヒント』が隠されていたのだ。
先生が書かれた“今”とは、当たり前だが昭和34年を指している。現在から観れば「過去」であっても、私奴を含めた当時(昭和34年)の人々が「過去」を生きていたわけではない。今在る「現代人」と同じく、日々「現在」を生きていた、というのが厳然たる「事実」である。
誰しも「未来」など知る由もないから、比較可能なのは「現在」と「過去(歴史)」のみ。その「過去」も史料のない有史以前は想像するしかない。だが、人間は常に「現在」という“時代の最先端”を生きてゆかねばならない宿命(?)にあるのだ。
「現在」と比べれば、「過去(歴史)」がどうしても“非文明的で遅れた時代”であったかのように見えてしまう。が、その時代に我が身を置いて考えてもみよかし。先人たちもまさに「現在」を生きていたのであり、その「現在」が“非文明的で遅れている”ように見える道理があるまい。ここに、「現在」に驕れる「現代人」の錯覚と誤謬がある。
結論として、先生のメッセージを自分なりに解釈すると、【便利な世の中と雖も、他人様のお世話にならずに済むよう、何事も自分自身で考えて行動し、常に謙虚な気持で人生を歩んで欲しい。】だと思う。
また、『《便利な世の中》といっても、あなた自身が築いたのではなく、すべて先人を始めとした他人様から与えられたものでしょう?』との警鐘が言外に読み取れる。要するに、「過去(歴史)」が“非文明的で遅れた時代”とすれば、『その恩恵に浴せなかった分、先人たちはあなたより遙かに大変な自助努力を必要としたのですよ。他人様に頼ってしか生きられない人と自らの努力で生きる人、どちらが人間として立派か、よ~く考えてごらんなさい。』と諭されたみたい。
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