これまで40年近くの間、日本のドラマを視たことがない。若い頃は生業に追われて視たくも視れなかったのだが、次第にテレビそのものを視なくなってしまった。そのうち世はデジタル時代となり、32吋アナログハイビジョンテレビ自体が、いつの間にか単なる粗大ゴミと化した。視てないのにNHK受信料をぼったくられるのもシャクだから、地デジになってまもなくPC用チューナーを買った。ちょうどネット配信で韓流ドラマを知りこれに凝ってた頃で、主にBS放送の当該ドラマを録画していたが、視るにつれて激しい違和感に襲われ、興が醒めてしまった。
そんな折、目下フジテレビで「ショムニ 2013」が放送されている。以前番組の再放送でなく、その名が示すとおり人気シリーズ物の新作らしい。自分も、現役時代はショムニ(「総務部」という意味で)に居たことがあるので、どんなモノかと好奇心に駆られて毎回視ている。
前述の如く、40年近く日本のドラマを視なかったこともあって、おのれの子供時分とはずいぶん勝手が違うなぁ、というのが率直な感想である。ハリウッド映画張りの娯楽性が満載で、かつCGを駆使した映像技術の進歩には目覚ましいものを感じる。しかし反面、わざとらしい芝居がかった(元々が「芝居」なのだから当たり前だが)演技といい、役者の棒読み台詞といい、子供向け番組かと見紛う幼稚な作風といい、むしろ本質的な部分で劣化が著しい。
逆に日本人としての自覚を促してくれるのが、ショムニ社員だけが着用する制服姿。
http://www.fujitv.co.jp/shomu2/topics/index02.html
これですよこれ、外国人にはまったく理解不可能であろう日本人独特の心情とは。
未見なるもショムニ・シリーズが始まったのが1998年。米国発のグローバリズムが日本型企業を根柢から破壊しつつあった時期と重なる。この波に乗って、社歌が新作のコーポレートソングに変えられ、横文字(英語)化された役職や部署名とともに日本の主要企業から制服姿が消えていったのもこの頃である。これは、日本人の心情を考えない前代未聞の愚挙と断言してもいい。何でも欧米企業の真似をすればよいという問題ではない。
考えてもみよかし。おのれが一流校、一流企業の学生・社員である証(あかし)として、男ならバッジ(襟章)、女なら制服姿を誇らしく思ってはいないだろうか。それ(バッジ・制服)を作り替え廃止してしまったのだから、何を寄る辺にしろと言うのだろう。何かにつけ個性を強調したがる目立ちたがり屋の欧米人と違って元来の日本人は、集団のなかで浮いてしまうことを極度に怖れ、帰属する集団におのれを投影してしまう傾向が強い。
ドラマ《ショムニ》は謂わば掃き溜め部署だから、会社の吹き溜り(弱者)が集まる。ヒロインの坪井千夏(江角マキコ)は、大和撫子と呼ぶにはほど遠い“鉄の女”として描かれ、悪役の会社上層部に対して臆せず、毎回説教を垂れまくる姿は女番長風である。しかし、ハリウッド西部劇や韓流ドラマとは決定的に異なる点がある。それは、状況の如何を問わず、決して権力(支配層)に媚びたり取り入ったりしない。立ち位置鮮明にして常に弱者(被支配層)側に居るということ。つまり、幼稚な作風とは別に、判官贔屓とされる伝統的な日本人の心情を代弁する内容だから、余計に痛快・愉快なのである。シナリオ・ライターが意図してのことかどうかは知らない。しかし、浪花節を思わせる展開は、紛れもなく日本人が作ったドラマであることが判る。
韓流ドラマへの違和感は、此処にも原因があった。韓流を視ていると、復讐劇にしろ時代劇にしろ、どれもこれも敵と見なす相手と同じ手法でオセロゲームを展開しているに過ぎない。主人公と雖も、状況によって立ち位置がコロコロ変わり、家族であろうが恋人であろうが、おのれが見たもの聞いたものしか信じない。そのくせ、敵と見なす者の言説を真に受けたりするのだから、真面目なドラマほど喜劇として笑うほかない。金品はおろか地位・恋愛までが取引の材料として使われる。欲望と損得勘定だけが横溢する完全な利益社会(ゲゼルシャフト)のドラマで、未だに共同体社会(ゲマインシャフト)の名残を留める日本人には理解し難い。
北朝鮮による日本人拉致事件は、日本人には理解できない性質の事件である。日本人では思いもつかない思考から生み出された事件だからだ。しかし、韓流ドラマが“手口”の一つ一つを丁寧に解き明かしてくれるようで、その意味では大いに役立ったとも言える。
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