短期間ながら外国で暮らしてみると、外から日本を客観的に眺めることが出来る。自分が南国(九州)生まれのせいか、隣国の中・台・韓よりもタイのほうが、日本人気質(かたぎ)との近似性があるように思う。ただし、“似ている”のあって、当然ながら“完全一致”を意味する謂いではない。
では、諸外国人と日本人とを峻別する気質の違いとは何であろう。飽くまで個人的かつ恣意的な観方に過ぎないとお断りしたうえで書くなら、それは他者への《思いやり(配慮)》ではなかろうか。このことについては、思いやりの文化でチラッと触れた。
どうしてこんな観方になったかというと、日常生活の何気ない人々との交流で得た実感からである。分かり易い例を挙げよう。米国マクドナルド社はグローバルなファーストフード店で、世界中に店舗がある。このうち自分が既知するのは、日本のほかオーストリア、スイス、ドイツ、イタリア、カナダ、台湾、インドネシア、タイなど。駅蕎麦をはじめファーストフード店なら、食後は顧客自身が後片付けするか最低でも下膳口まで下げて帰るのが原則とばかり思い込んでいたが、これを忠実に守っているのは日本だけ。なぜ顧客が後片付けしないのか、タイ人の日本語ガイドに訊いてみた。その答えは、何と『専任の掃除人が居るのに、仕事を奪っては可哀想』だって。所変われば考え方まで変わるのか。
では日本において、なぜ顧客が後片付けして行くのだろう。それがマクドナルドのルールだからか。しかし、そんな貼紙はないし、店員に催促されたこともない。そう、周りの顧客がそうしているので、自分もそれに倣っているだけなのだ。こういう《鄕に入りては鄕に従え》的な思考回路は、日本人なら生まれながらに備わっているように思う。自分の子供時分も、神社仏閣の前を通る際には、立ち止まって帽子を取り、軽くお辞儀をしていた。親や先生から教えられたわけではない。ほかの子供たちがそうしているから、それを真似てただけで、神仏を敬う気持とは別のところから発した所作であった。
《郷に入りては郷に従え》の出典は、支那の《入鄉隨俗(荘子外篇・山木)》らしいから、日本独自の諺というわけでもない。なのに、本家本元の現代中国人を観察してみると、全くの死語と化した趣がある。この差はどうしたことか。
思うに、日本の場合、良くも悪くも世の中を《運命共同体》と見なす傾向が強い。交通手段が発達した今日では外国移住も難しいことではないが、四方を海で遮られた島国という他に行き場のない環境が、遠い昔に《運命共同体》思想を引き寄せたのだろう。その“こゝろ”は、人間を善悪で分け隔てせず、等しく恩恵をもたらす天照大神(日の神)と同じである。こんな思想は、この世(現世)こそが天国(極楽浄土)でなければ生まれない。歴史的に圧政や屈服を強いられて来た諸外国では成り立ち得ない考え方で、日本独自の思想と言えよう。
ところで先頃、英国BBCによる【国別好感度調査】が公表された。どれほど信頼できる調査なのか知らないが、おそらく多分にお遊び的感覚を否めない軽いアンケートなのだろう。したがって、好感度が世界の1位か4位かで一喜一憂するような代物ではないと思う。
面白いと思ったのは、自国に対する評価。一般に自国を高く評価するのが万国共通の認識と思いきや、なぜか日本に限っては違う。さすがに自国が世界に悪影響を及ぼしているとの回答は少ないにしろ、中韓を除く世界中の評価が高いにも拘らず、良い影響をもたらしていると答えた人が半分以下(40%台)というありさま。これを以て愛国心に欠けると言えようか。そうではなく、地球全体(世界諸国)を《運命共同体》と考える日本人ならではの結果であろうと思う。
言いたかないが、中韓をご覧なさい。自国の高評価と諸外国の低評価とのギャップを、両国政府はどう説明するのだろう。この中韓を別にすれば、戦後外交がそう努めた経緯もあって、日本人は概ね世界の誰からも嫌われてない気がする。しかし、好かれることが即尊敬されることに繋がるわけではない点に留意する必要があろう。
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