あけましておめでとうございます。
正月三が日は、3日(水)に墓参りへ出かけたぐらいで、あとは自宅で寝っ転がってました。殆ど外へ出なかったせいもあって、お正月らしさが感じられなくなってますね。残念なことであります。
さて、イヤホンに拘るようですが、続報であります。SE535LTDも次第にエージングが効いてきたのか、高域の嫌味なキラキラ感が薄れてくると同時に、引き締まった低音が出るようになり、ずいぶんと聴きやすくなりました。
SHURE製品は普及価格帯のSE215も持っているので、これの付属ケーブル1.6mと交換用に買ったSAEC社製0.8m、それにSE535LTD付属の1.16mと、長さの違う三本を所有している。そして、ケーブル交換によっても鳴り方がかなり違ってくるのであります。
すなはち、SE535LTD付属ケーブルが最もアメリカ的で派手な音を演出するのに対し、SE215付属ケーブルだと高域の強調感がやや控え目になり、SAECに交換するとさらに引き締まった低音が加わるといった塩梅。結局、SAECケーブルが自分の耳に一番合っているようで、高・低のバランスがとれてとても聴きやすい。
因みに、チェンマイ便り - 12月17日(月) -で貼った《ไม่อยากจะสน》を聴き比べてみると、曲が曲なだけに、どのケーブルでもそれなりに愉しめる。しかし、クラシック音楽となるとそうはいかない。ポップス系とは“録音の在り方”が違うからだ。つまり、クラシック系が演奏をありのまま“音の缶詰”にすることを目的とするのに対し、ポップス系の究極は娯楽にあるがゆゑに、目的のためならば“音の加工”さえも許される。
左画像はショスタコーヴィチ「交響曲第5番」(1984年録音)で、何かと話題にする“懐かしの'80年代”の範疇に入るが、ここでは関係ない。関係あるのは楽団がベルリン交響楽団であること。東西ドイツ統合直後に伯林を訪れた際、同じ指揮者(クルト・ザンデルリンク)ではないし曲目(ブラームス「第3」)が違うものの、生(なま)でこの楽団の演奏を聴いている。同じ伯林でも由緒あるフィルハーモニーやシュターツカペレなどと違って戦後創設の新しい楽団だが、旧東側に本拠が在ったせいか、未だ木製フルートを使っていた。従って、響きは当然ながら古色蒼然たるもの。しかも、コントラバスの真後ろ二階席で聴いたこともあって、低音が腹に堪えて仕方がなかったと記憶する。
以上の経験を踏まえて三本を聴き比べると、SAECのだけがまあまあ聴ける程度で、他は「別物」になってしまう。まるでハリウッド映画のサントラ盤でも聴かされるみたいに、音色が如何にも派手派手しい。そこへいくと、絶妙のバランスを心得たSAECのケーブルに迷わず軍配をあげたい。さすがは“ザ・日本製”だけのことはある。
ここで唐突に「文化」の話を持ち出すのもナニだし少々大袈裟かも知れないが、これぞ日本文化の精髄と声を大にして言いたい。高倉健「唐獅子牡丹」(昭和41年)じゃないけれど、《義理と人情を秤にかけりゃ、義理が重たい》のは任侠に生きる男の世界だけである。世の中が義理尽くめだからこそ、人情(他者への思いやり)に篤いのが一般的な日本人の姿であろう。文化とは暮らしぶりの総体だから、論理型と情緒型に大別すること自体がそもそも適当ではないが、敢えて分けると日本文化は情緒型ではなかろうか。「論理(理窟)」がファジー(曖昧さ・柔軟性)を極力排除することによって成り立つのに対し、人間の「情緒(感情)」に普遍的な境界線などあろうはずがなく、元来がファジーかつ多様性に富んでいるはず。そういう意味での情緒型である。アメリカ人女性ルース・ベネディクトから観れば「恥の文化」と映るらしいが、そんな外面(そとづら)よりもっと深層を観よ、と言い返してやりたい。
変な話、「論理」と「情緒」なら当たり障りなく聞こえるが、「理窟」と「感情」に言い換えると、忽ちにして否定的な意味合いを含む用語と化す。これですよ、これ。極端を嫌う日本人ならではの、絶妙なバランス感覚。要するに逆説的な言い方ではあるが、世の中が利益社会(ゲゼルシャフト)化しつつあるからこそ、消えゆくものに対する愛惜の念と相俟って、旧き佳き時代の共同体社会(ゲマインシャフト)的要素が今になって脚光を浴びているのではないか、ということ。
風俗や文化は時代とともに変容するもの。だから、江戸時代以前の先人が丁髷のない現代日本人を観たら、何とも珍奇な姿と映るに違いない。そして、我ら現代人が100年後の未来日本人に会う機会はまずなかろうが、若し会えるとしたら「何だコイツ」と思うはずである。しかし、外見上のことはともかく、身体が親から受け継いだものなら、内面にも先天的な部分がなければおかしい。これが古来より謂われる「やまとごゝろ(=大和魂)」なのだろうと思っている。
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