☆ 緊 張
打ち見たる所に、その儘、その人々の丈分の威が顕はるるものなり。引き嗜む所に威あり、調子静かなる所に威あり、詞(ことば)寡(すくな)き所に威あり、礼儀正しき所に威あり、行儀重き所に威あり、奥歯噛して眼差尖なる所に威あり。これ皆、外に顕はれたる所なり。畢竟は気を抜かさず、正念なる所が基(もとゐ)にて候となり。
【 訳 】
見た感じそのまま、その人の身についた威厳が現れるものである。精進努力するところに威厳があり、物静かなところにも、寡黙なところにも、礼儀正しいところにも、行儀の行き届いたところにも、奥歯を噛んで眼光炯々たるところにも、それぞれ威厳というものはある。これらはすべて外観に現れるところである。ひたすら思い詰め、本気であることが、つまりは基本となるのである。
【 解 説 】
人間が道徳的目的のために、いつも美しく生きようと努め、その美の基準をいつも究極的な死に置いているならば、日々は緊張の連続でなければならない。だらけた生を何より厭う「葉隠」は、一分(いちぶ)の隙も見せない緊張の毎日に真の生き甲斐を見出していた。それは日常生活における戦いであり、戦士の営みである。
「緊張」というサブタイトルは、三島由紀夫の解説文につけられたもので、「『葉隠』名言抄」のほうでは「人の威厳ということ」となっています。内心が外観に現れることを示した項であろうと思うのですが、実はこれこそ人知れず探究に勤しんできたわたくしの人間観察學(?)の行き着いた先であります。
どういう興味からか自分でもわかりませんが、“読心術”の真似事に子供の頃から熱中していたのであります。最初は単なる物真似(いわゆる「猿まね」)だったものが、「その人」になりきることによって、対手の考えていることがわかったような気になれるんですね。
最近では、どくろ仮面に嵌ってしまい、「何処の馬鹿ぞ。」とお思いでしょうが、これが実に愉しい。歴史を観る時も、歴史上の人物になりきる。要するに、演じる役柄になりきるために、役者の研究心が湧き起こるのと似た心理状態なのでしょうね。
「葉隠」はそんなことを言わんとしたわけでなく、威厳は本気度に比例する、ということでしょう。自分もそう思います。興味深いのは、「威厳」からはほど遠いと思われる「物静か・寡黙・礼儀正しさ・行儀作法」といったところにこそ宿る、と教えているところですね。世の中を威張って生きている人とは対極にある生き方であることに注目したいものです。
ありがとうございました。
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