☆ 威
主人にも、家老・年寄にも、ちと隔心に思はれねば大業はならず。何気もなく腰に付けられては働かれぬものなり。この心持これある事の由。
【 訳 】
主人にも、家老や年寄にも少しぐらい煙たがられるようでないと、大きな仕事は成し遂げられない。いつでも安心され、腰巾着にされるようでは、却って働けないものである。こうした考えを持つことだ。
【 解説 】
前項(拙稿№159680)と関連して、人間の威とは何であろうか。それは侵すべからざる自尊心の外面的な現れであり、男をして男たらしめるものである。人の軽蔑をかうよりも死んだほうがましという信念である。そして、そのような人間の社会的行動の現れは、人に煙たがられることを避けることはできない。「葉隠」は多少人に煙たがられる人間になれと教えているのである。
僅か二行あまりの項ですが、わたくしは、ここに「男の美学」というものをみるのであります。これこそ、武士の本分の一側面であり、昔の小父さん像につながる日本男児の「伝統」であったろうと思います。「葉隠」で言うところの“苦み”ですね。
またまた子供時分の話で恐縮ですが、自分が義務教育課程にあった昭和二十年代末から昭和三十年代にかけての教師には、大別して二種類ありました。こなた、軍歴があったり、戦前教育を是とした(と思しき)比較的年配の訓導タイプと、かたや“新日本建設”に情熱を燃やす若いバリバリの日教組タイプ教員。
概して若い先生方は、当たりが優しく滅多に叱ったりしないのに対し、年配の先生方は体罰ありの強面タイプが主流でした。ところが、児童心理というのは不思議です。断然人気があったのは、何と軍隊あがりの先生方のほうでした。一方、若い先生を児童たちは、完全に舐めきっていました。思想信条がどうのこうのではない。物の道理がわからない児童は、直感でどちらが頼りになるのかを嗅ぎ分けていたのです。
いま熟々思い起こしてみるに、若い未婚の女先生なんか、からかったりして逆に児童のほうが虐めていましたよ。黒板消しやバケツを教室入口に仕掛けたり、チョークを隠したりして。しかし、敵(?)もさる者。家庭科の時間にきっちり仕返しされましたけど。
そこへいくと、軍隊あがりの先生は、そんなわけにはいかない。小心者の自分なんかは、指されはしないかと授業中ず~っとビクビクしていました。終業の鐘の音を聞いて命拾いをした心地になったものです。
この緊張のあとの解放感が堪らないのであります。いまや、社会全体がこうしたメリハリがなくなってしまい、弛みきった中をボーッと生きていますまいか。緊張があるからこそ、解放の喜びや有り難さが身に沁みるのではないか、とわたくしは考えます。
ありがとうございました。
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