☆ 男と鏡
風體の修業は、不斷鏡を見て直したるがよし。十三歳の時、髮を御立てさせなされ候に付て、一年ばかり引き入り居り候。一門共兼々申し候は、「利發なる面にて候間、やがて仕損じ申すべく候。殿樣別けて御嫌ひなさるるが、利發めき候者にて候。」と申し候について、この節顏付仕直し申すべしと存じ立ち、不斷鏡にて仕直し、一年過ぎて出で候へば、虚勞下地と皆人申し候。これが奉公の基(もとゐ)かと存じ候。
利發を面に出し候者は、諸人請け取り申さず候。ゆりすわりて、しかとしたる所のなくては、風體宜しからざるなり。うやうやしく、にがみありて、調子靜かなるがよし。
【 訳 】
姿格好を正す修業は、いつも鏡を見て直すのがよい。私は十三歳の時に髪を立てたが、一年ばかり家に引き籠もっていた。何故かと言えば、兼々一門の人が、「あの子は利口そうな顔をしているので、いつか失敗するだろう。殿様がとりわけお嫌いなさるのは、利口そうに見える者である。」と言っていたので、顔つきを直そうと思い立って、常日頃鏡を見て直し、一年過ぎて出向いていったら、何だか病人みたいだ、とみんなが言ったものだが、これがつまりは奉公の基本だと思った。
利口さを顔に出す者は、何かと信用され難いものである。落ち着き払い、しゃんとしたところがなくては、姿格好がよいとは言えない。恭しく、苦みがあって、調子の静かなのが一番だ。
【 解 説 】
道徳がもし外面的に重視されるべきものならば、その外面の代表は敵であり、また鏡である。自分を注視して、自分を批判する者は、敵でありまた鏡である。女にとっての鏡は化粧の道具であるが、男にとっての鏡は反省の材料であった。
自分の顔が利発すぎるというので、鏡を見ては直しおおせたというのは不思議な例であるが、「葉隠」がここに言っている人間の、あるいは男の顔の理想的な姿、「うやうやしく、にがみありて、調子靜かなる」というのは、そのまま一種の男性美学と言える。
「うやうやしく」には男の顔にあるところの、人を信頼させる恭謙な態度が要請されており、「にがみ」にはこれと正反対に、一歩も寄せつけぬ威厳が暗示されており、しかも、この二つの相反する要素を包むものとして、静かな、物に動じない落ち着きが要求されている。
なるほどなあ、と感心しきるほかありません。
きょうけん 【 恭 謙 】
慎み深く、へりくだること。また、そのさま。
いげん 【 威 厳 】
近寄りがたいほど堂々としておごそかなこと。
言われてみれば、自分が子供だった頃の男親たちには、こうした風格というか存在感があったような気がします。普段はニコニコ顔で息子に甘かった亡父でしたが、滅多に怒らないだけに、いつ怒られるかと無言の圧力(?)を感じて、いつも顔色を窺ってました。これが「父権(父親の権威)」というものでしょうか。
人生六十年も過ぎると、顔つき、話し方、物腰、文章等で、その人なりが、ある程度判断できるようになるようですね。相手を見下したように肩を怒らせてみたところで、誰も耳を貸さないのは、「葉隠」に言われなくても、経験から判ること。そんな人は、修羅場となれば、真っ先に逃げ出す弱虫に決まってます。本当に偉い人なら、偉くなればなるほど、誰に対しても恭しいもの。男児たるもの、普段はへらへらしていようが、いざという時に乾坤一擲、勇猛果敢に戦えさえすればよし、という教えでしょうね。
稔るほど 頭を垂れる 稲穂かな
いい句ではありませんか。
ありがとうございました。
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