☆ インテリ論
勘定者はすくたるるものなり。仔細は、勘定は損得の考へするものなれば、常に損得の心絶えざるなり。死は損、生は得なれば、死ぬる事をすかぬ故、すくたるるものなり。又學問者は才智辯口にて、本體の臆病、欲心などを仕かくすものなり。人の見誤る所なり。
【 訳 】
計算高い者は卑怯者である。理由は、計算は損得ずくなので、いつでも損得の考えがぬけないからである。つまり、死ぬことは損、生きることは得だから、結局死ぬことを止めるので卑怯者というのである。
また学問のある者は、才知に長け、弁舌のさわやかさで、臆病とか、欲得とかいった本音を隠している。この点は、とかく人の見間違うところである。
【 解 説 】
「葉隠」の時代には、現代インテリゲンチャに該当するものは、おそらくなかった。しかし、現代インテリゲンチャの原型をなすような儒者、学者、或いは武士の中にも、太平の世とともにそれに類するタイプが発生していた。それを常朝は実に簡単に「勘定者」と呼んでいる。
合理主義とヒューマニズムが何を隠蔽し、何を欺くかということを、「葉隠」は一言を以て暴き立て、合理的に考えれば死は損であり、生は得であるから、誰も喜んで死へ赴く者はない。合理的主義的な観念の上に打ち立てられたヒューマニズムは、それが一つの思想の鎧となることによって、あたかも普遍性を獲得したような錯覚に陥り、その内面の主体の弱みと主観の脆弱さを隠してしまう。
常朝がたえず非難しているのは、主体と思想との間の乖離である。これは「葉隠」を一貫する考え方で、もし思想が勘定の上に成り立ち、死は損であり、生は得であると勘定することによって、単なる才知弁舌によって、自分の内心の臆病と欲望を押し隠すなら、それは自分のつくった思想を以て自らを欺き、また自ら欺かれる人間の浅ましい姿を露呈することに他ならない。
近代ヒューマニズムといえども、他人の死でなくて、自分の死を賭ける時には、英雄的な力を持つでもあろうが、その一番堕落した形態は、自分個人の「死にたくない」という動物的な反応と、それによって利を得ようとする利得の心とを、他人の死への同情にこと寄せて、覆い隠すために使われる時である。それを常朝は「すくたるる」と呼んでいる。
「すくたれ者」とは、肥州方言。「葉隠」は肥前(佐賀県)でしょうが、会社でともに仕事をした中に肥後玉名市出身のご婦人がありまして、その方もよく「すくたれ」を遣っておられました。自分は肥州に近い筑前・筑後の国境生まれながら、この方言を後年まで知りませんでした。「意気地なし」「卑怯者」といった意味合いだそうです。
人間の本性は、生死の境目にこそ顕れるものと思います。
TV映画『月光仮面』(昭和33年~昭和34年放映)については、その第一部「どくろ仮面の巻」をすでに書かせていただきました。昭和30年代初期の文化風俗習慣を知るうえで貴重な映像資料でした。小五だった当時はまったく意識になかったものの、戦前教育を受けた人たちの行動原理たる「価値観」がいっぱい詰まっていました。それは、とかく損得でしか価値判断出来なくなってしまった現代人が、物質的な豊かさと引き替えに忘れてしまった“こころ”です。
ありがとうございました。
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