TV映画『月光仮面』は、ようやく第一部「どくろ仮面の巻」を終えたばかりですが、第二部以降も似たり寄ったりなので、取り敢えずはここまでとしたいと思います。もし、続篇の中で注目すべき点が見つかれば、折に触れてその部分を話題にしましょう。
今回、台詞起こし作業をしたことにより、特に言葉遣いという点で非常に勉強になりました。ただ、「放送劇」という性格上、どちらかといえば“よそ行き”言葉で、当時の生(なま)な言葉遣いとは多少異なるとしても、対手によって使い分ける見事さ、心地よい言葉の響きを堪能出来ました。
登場人物の中で、五郎八が最も庶民に近い言葉遣いですね。沈着冷静な月光仮面や祝探偵と違い、感情起伏の激しい人物として描かれているので、そういう意味でも貴重でした。正面切って「カボ子」と呼び捨て出来ないくせに、誰もいないところでは「カボ子のやつ」とかいっています。ここが、五郎八の憎めないところですね。
敬称をつけずに呼び捨てるのは、近しい間柄では当然で、博士のあや子(娘)に対する場合、山本の節子(妹)に対する場合、祝の繁・木の実に対する場合、みなこれにあてはまります。
言葉の誤用も見つかりました。第50話で、タイガーの「ユリの二の舞を演じたくない。」という台詞がありますが、現実は「二の舞を踏みたくない」と言っていたのを訂正しました。ワープロ一太郎で原稿を作って投稿しているのですが、間違いを指摘してくれるのですよ。ほかには防衛庁が「名称変更現在防衛省」と注意してくれます。便利になったものです。その分、辞書を引くこともなくなり、便利さと引き替えに、こうして怠惰に流れていくんですね。
綴り方(作文)についても同じことが言えます。ワープロで簡単に漢字変換出来ますから、その便利さと引き替えに漢字を忘れていってしまいます。漢字の読みはまだ何とかなりますが、いざペンを執って書こうとしても、漢字を思い出せない。ペンを執ることすら滅多になくなりました。
当時の連絡手段は、主に手紙で、緊急の場合が電報でした。一般家庭にまだ電話が普及していなかったからです。そのおかげで、手紙はよく出しました。親の職業の関係で、小・中学とも転校を経験しています。そのため、小学生であっても、福岡の級友や親戚に手紙を書いてましたよ。あっそうそう、カナダのお祖母ちゃんにも。
ところで、聴き起こししていて思い出したのは、我々の世代は、ラヂオで育っているんですよね。NHK連続放送劇としての「さくらんぼ大将」、「新諸國物語」「一丁目一番地」「ヤン坊ニン坊トン坊」など。「鐘の鳴る丘」はさすがに憶えていません。「君の名は」は、親が聴いているので聴かされていたわけですが、総じて筋書きなどはチンプンカンプンでした。
このラヂオは、映像がない分、想像力を必要とするんですね。音声だけでその情景を思い浮かべるわけです。これが、結構状況判断の訓練になったと思います。
例えば、野球中継では、肝心な部分が観客の大音声で実況が聴き取れないのですが、溜息か歓声かで状況が読めるようになるんですよ。普段は五月蠅い私設応援団も、この場合は状況判断に貢献してくれます。すなはち、敵が三振すれば大音響の鐘や太鼓。味方に点が入った場合もすさまじい大音響に包まれますが、敵方有利の状況ではシ~ンと静まりかえり、聞こえてくるのは溜息ばかりって具合。
あくまで連続放送劇としての「作り話」ではありますが、主題が正義と悪との戦いとするなら、正義が「政府」であり、「警察」であり、「自衛隊」として描かれている点に注目です。つまり、これら体制側は、時の視聴者(子供たちや一般国民)の味方であるという認識だったわけですよね。
それがいつの間にか、反体制こそ正義であるかのように錯覚している人が居る。味方の軍隊・官憲を暴力装置と称する者が居る。あたかも味方に蹂躙されるかの如く。己こそが悪であることに気づいていないからであろう。お目出度い話ではある。そんな歪んだ目しか持たない今のマスメディアのほうが、異常なのは明々白々である。
以上です。
ありがとうございました。
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