みなさま、こんばんは。
バッハ 【 Johann Sebastian Bach 】[1685~1750]
ドイツの作曲家・オルガン奏者。200年続いた音楽家の家系の中でもひときわすぐれ、大バッハと称される。
おほいし-よしを 【 大石 良雄 】[1659~1703]
播磨赤穂藩士。浅野長矩の家老。通称、内蔵助。同志とともに吉良邸に討ち入り、主君の仇を討った。幕命により細川家に預けられ、のち切腹。
ありゃりゃ。大石さんが切腹なさったとき、バッハさんは18歳、紅顔の美少年(?)だったんですね。無論勿論結論、バッハさんと大石さんとは、何の脈絡も接点もありません。しかし、少なくとも十八年間は同時代を生きておられたことになります。
さて、そのバッハさんは、大石さんの切腹の年、つまり18歳の時、ヴァイマルの宮廷楽団に就職なさっています。その後、遠戚のマリア・バルバラ・バッハさんと結婚、七人のお子をもうけ、はたまた宮廷歌手のアンナ・マクダレーナ・ヴィルケさんと再婚、十三人のお子をもうけられました。合計20子。凄い。少子高齢化に悩む現代日本政府は、バッハさんを特命大臣に遇し、速やかに解決を図るべきでしょう。
冗談はさておきまして、書きたかったのはここから、バッハさんの宗教楽曲についてなのです。就中、受難曲、カンタータなど。自分はクリスチャンではありませんが、なぜかこれらには魂を揺さぶられます。
もう十五年以上前になりましょうか。バッハさんの足跡を追って、と言うわけでもありませんが、生地アイゼナハをはじめ、テューリンゲン地方の町や村を訪ねてみました。
わけても、バッハがトーマスカントルをしていたゆかりのライプツィヒ聖トーマス教会が忘れられません。三月にも拘わらず、夜間気温は零下に及び、外套を着込んで手を擦りながら、曲を聴く機会を得ました。
トーマスカントルは、ライプツィヒ聖トーマス教会の音楽監督のこと。教会の音楽を取り仕切り、その付属小学校の教職にも当たり、さらにはライプツィヒ市全体の音楽監督も兼ねた。
バッハもこの職に就き、教会の聖歌隊を率いて週1回礼拝でカンタータを演奏し、街のさまざまな行事にも相応しい音楽を作曲、演奏した。
* 主な歴代カントル *
・ ゼトゥス・カルヴィジウス(1594年 - 1615年)
・ ヨハン・ヘルマン・シャイン(1616年 - 1630年)
・ ヨハン・シェッレ(1677年 - 1701年)
・ ヨハン・クーナウ(1701年 - 1722年)
・ ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1723年 - 1750年)
・ ヨハン・フリードリヒ・ドーレス(1756年 - 1789年)
・ ヨハン・アダム・ヒラー(1789年 - 1800年)
・ ゴットフリート・ヴァイニング(1823年 - 1842年)
・ カール・シュトラウベ(1918年 - 1940年)
・ ギュンター・ラミン(1940年 - 1956年)
・ クルト・トーマス(1957年 - 1961年)
・ エアハルト・マウアスベルガー(1962年 - 1971年)
・ ハンス・ヨアヒム・ロッチュ(1972年 - 1991年)
・ ゲオルク・クリストフ・ビラー(1992年 - )
・ カール・リヒター
- ライプツィヒ音楽大学においてシュトラウベとラミンに学び、1949年から1951年にかけて、聖トーマス教会のオルガニストを務めた。
この時聴いたのはオルガン曲だけで、曲名は忘れてしまいました。コンサート自体は無料なのですが、教会の扉傍に木製募金箱のようなものが備え付けてあり、クララ・シューマンの20マルク札(ユーロに代わったため、今は遣えない?)をお布施させていただきました。
バッハも弾いたであろうオルガンの響きが鳴り渡ると、急に身体が震えてきました。決して寒さのせいだけではなかったように思います。
なお、当時、聖トーマス教会は、外観の修復工事中で、工事用幕で覆われていましたが、よくみると竹中工務店、大成建設、間組等の日本企業が請け負っていたようでした。東独崩壊五年目のことです。
ありがとうございました。
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