ボランティアから労いの日本語
意味を知った英キャスターが驚愕「何という文化だ!」
8/4(水) 15:03配信/THE ANSWER(総合スポーツサイト)
■来日中の英キャスターが競技場での出来事を紹介
東京五輪を支えるボランティアの人々に、来日している海外キャスターは感銘を受けたようだ。競技場を去る際にかけられた言葉について自身のSNSで「なんという文化なのでしょう」と紹介。フォロワーからも「東洋から学ぶことがたくさんある」などと反響が寄せられている。
ボランティアの人々について自身のツイッターに投稿したのは、英衛星放送「ユーロスポーツ」のキャスター、オーラ・チェンナウイ氏だった。元全アイルランドの三段跳び女王でもある同氏は、このように驚きをつづっている。
「競技場を去る際、ボランティアと大会関係者が同じフレーズを繰り返しています。東京を拠点にしているカメラマンが訳してくれた。彼らは全ての人に繰り返し繰り返し『大変なお仕事ありがとうございます。ゆっくり休んでください』と言っているのです。なんという文化なのでしょう」
絶えず海外の関係者に「お疲れ様です」と労いの言葉をかけ続けている姿を伝えたチェンナウイ氏。海外のフォロワーからは「西洋は東洋から学ぶことがたくさんある」「ラグビーW杯で日本に行ったけど、これまで経験したことのない歓迎を受けたよ」「2002年サッカーW杯も素晴らしかったよ」などと反響が寄せられている。
コメント総数;148
一、こと、相手を思いやる心、言葉がけ、行動について
日本で普通が、海外では普通じゃない。
日本の普通が海外でも普通になったら
世の中の争いが少しは減ると思う。
でも残念ながら日本でも悪い方に個人主義、欧米化が進んでる。
二、「西洋は東洋から学ぶことがたくさんある」
ありがたいことです。
我々は仕事が終わると、「お疲れ様です」というあいさつが習慣になっているのですが、欧州などではそんな言葉はないのかな。
東洋というと、勘違いする国が出てくるから、ここは「日本」としっかり表現していただければ幸いです。
三、「なんという文化なのでしょう」と驚愕されればボランティアも五輪関係者も嬉しいだろう。
コロナ禍のオリンピックの中で、素直に称賛してくれたり温かいコメントを発信する国がある一方で、毎日反日活動をして五輪を政治利用する国もある。
どの国と仲良くしてくべきかもはっきりしたので、色々と良かったと思う。
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<東京五輪>韓国、中国バドミントン選手の「悪口」提訴
8/4(水) 7:09配信/中央日報(韓国)日本語版
大韓バドミントン協会は中国のバドミントン女子ダブルスの陳清晨-賈一凡(以上24)を世界バドミントン連盟(BWF)に3日、提訴した。先月27日、韓国の金昭映(キム・ソヨン、29)-孔熙容(コン・ヒヨン、25)は中国ペアとの1次リーグで敗れた。この過程で、陳清晨は中国語で韓国選手に悪口を発した。当時、陳清晨は「発音の問題だった」と釈明した。国際オリンピック委員会(IOC)は競技の途中に悪口行為に対するルールを定めていないが、BWFは競技中に審判や観衆に聞こえるほど大きく冒とく的な言葉を吐いてはならないと定めている。
コメント総数;518
イ、自分たちの悪口は問題ないが、悪口を言われるのは許さない!ってことだね。
韓流スタンダードは相変わらずブレませんねぇw
ロ、普段は自分達が対日本にしている事じゃないか、何故自分に向けられたら急に切れるの?
言われる側に立った気分は如何か?。
謝罪と賠償を中国相手に求めても何にも帰って来ないぞ、日本のように甘くは無い。
ハ、最初に大声で何かを言っていたのは韓国選手、それを審判に注意してと中国選手が言っていたが認められ無かった為同じ事をしただけ、どっちもどっち
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中国選手 金メダルだけが目的?=東京五輪
2021.8.4公開/新唐人電視台(NTDTV)日本語版
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新唐人電視台の動画を視ると、西洋近代主義的価値観(自由+民主主義+人権+法治など)を標榜する所謂「西側諸国」では、想像だに出来ない非人道的な別世界である。全体主義は、斯くも人間性まで奪ってしまうものなのか。アスリートにせよアーティストにせよ、全体の利益(この場合「国威発揚」)という美名のもと、人権もヘチマもあったものではない。ウィグル人、チベット人、モンゴル人、香港人らに対する人権弾圧ばかりが問題にされるが、民族的な意味での真正中国人でさえ、この有様である。
ニュースになったようなことが各国民性とするならば、中韓(+北)の特亜三国は、インターナショナル・スタンダード(国際標準)から大きく懸け離れていると言わざるを得ない。田中英道東北大名誉教授に依ると、儒教の始祖孔子は、自国(シナ)に倫理道徳無きを嘆き、東夷(=日本)に憧れていたのだとか。赤穂四十七士の武林唯七の祖先は、文禄の役(1592-8年)の際、捕虜となった明軍兵士だとかで、武林(ぶりん=文人に対する武人の意)派だったため、武林(たけばやし)と名乗ったらしい。所謂「渡来人」の家系とされる。
孔子(BC551-479年)存命の頃、我国は縄文時代晩期~弥生時代初期に当たる。記紀に依れば第2代綏靖天皇~第4代懿徳天皇の御代とされる。田中説が事実とすれば、我らの御先祖様は、高い倫理性・道徳性を備えていたことになる。こうした道徳観は、一体何処から来たのだろう。少なくとも、シナ・朝鮮からでないことは疑いようもあるまい。飽くまで想像だが、自然信仰が源流ではないか。太陽・大地・雨水・食糧としての禽獣魚介植物など、自然の恵みに対する感謝が原点にある気がする。
それが後世への伝統となって、我国固有の精神文化(当世風には「おもてなし」)を形成して行ったのではないかと考えられる。この核となっているのが「思い遣り(ホスピタリティ)」である。これを具現化したのが「礼儀作法」ということになる。武道、茶道、華道などの道(みち)に入れば、それなりの立居振舞を習得することになろうが、一般的には行儀作法として子供時分に躾けられるか、社会に揉まれるうちに自然に身に着けるかだが、その気がなければ馬耳東風に過ぎない。
【礼儀作法】
人がその社会生活を円滑に営み、社会秩序を保つために用いる規範と実践の総体。
礼とは温かい真心の具体的な表出であり、礼儀とは他との関係においてそれを判断・評価・行為の基準とする原則である。
礼儀に基づいて社会的に様式化された言語的・非言語的表現が作法である。
これらをあわせた礼儀作法の語は、主として社会の秩序や人間関係を構築し維持する価値基準および行動様式の意味で用いられる。
礼儀は一般に人間に対してのみ行われるものと思われているが、本来は自己とかかわるすべての事物が対象である。
人が外界の事物とかかわるとき、それらに向かう敬意や愛情が、時、場所、場合に応じて言語的・非言語的に最適化して表出されたものが作法であり、神仏をはじめ道具や水、空気といった無機物など、あらゆるものが対象となりうる。
神社で参道の中央を遠慮して歩く作法は神への敬意を表すためであり、漆塗りの膳にのせた器を持ち上げないまま引きずって移動させることを忌む作法は、膳を傷めないようにする心遣いによるものであって、そのどちらも客体は人でない。
これら作法の根底にある思いやり、真心、誠意といった心情は儒教では仁とされるもので、その発露が一定不変の行動理念としてそれぞれの民族や地域や時代において働くとき、行為は状況に応じて千変万化した作法として出現する。
このように理念としての礼儀は不易(=不変)の存在であり、実体としての作法は流行の存在といえる。
話は脇道に逸れるが、未だ現役だった二昔ほど前、メールの遣り取りで論争になったことがある。「御苦労様」と「御疲れ様」の使い分けを巡ってである。
【御疲れ様】
相手の労苦をねぎらう意で用いる言葉。また、職場で、先に帰る人へのあいさつにも使う。「ご苦労様」は目上の人から目下の人に使うのに対し、「お疲れ様」は同僚、目上の人に対して使う。
[補説]文化庁が発表した平成17年度「国語に関する世論調査」では、(1)自分より職階が上の人に「お疲れ様(でした)」を使う人が69.2パーセント、「ご苦労様(でした)」を使う人が15.1パーセント。また、(2)自分より職階が下の人に「お疲れ様(でした)」を使う人が53.4パーセント、「ご苦労様(でした)」を使う人が36.1パーセントという結果が出ている。
【御苦労様】
他人の骨折りを感謝する丁寧な言葉。挨拶語として用いることが多い。
言葉というのは時世時節によって変わるものだと、つくづく思う。昔の映画やドラマを観ると、「御疲れ様」なんて言葉は出て来ない。自分の記憶に間違いなければ、芸能界でしか通用しない業界専用挨拶語で、仕事が終わった人に声掛けする単なる挨拶の言葉に過ぎない。夜であってもその日初見の人とは「今晩は」でなく「お早う」と挨拶する習慣と同じ職階上下とは無関係の単なる挨拶語でしかなかったのだ。論より証拠、時代劇で重臣に対して配下の者が「御疲れ様に存じ奉りまする」なんてセリフを吐きますか? 相手との上下関係を考慮して「御苦労」「御苦労様」「御苦労様で御座います」と丁寧度に差をつけていただけである。
話を戻そう。五輪競技選手(オリンピアン)の規範として「スポーツマンシップ」がある。西洋近代主義思想を反映した西洋的概念だが、対戦相手やルール・審判などへの敬意が求められる点で、我国の「おもてなし」「思い遣り」の精神と付合する。
【スポーツマンシップ】
スポーツマンが必ず身につけていなければならないとされる競技精神。
フェアプレーの精神と同義で,「公明正大に,全力を尽くす」ことであり,結果的に「負け」ても可とされているが,あくまでも「勝とう」とする努力の精神をさす。
競技する相手,審判,競技規則への敬意と尊敬の念はスポーツする者にとって最も大切と考える理想主義がこれを支えている。
対戦相手への敬意がなぜ必要か? 自分が勝つということは相手が負けることである。逆の場合は、自分が敗者であることを意味する。勝負は時の運、明日は我が身と仏教的無常(「無情」ではない)観に裏打ちされた武士(もののふ)の敗者への思い遣り(憐憫の情)がスポーツマンシップにも通じよう。それと同じ心根を現代日本人が具備していることに対して、とりわけ西洋人を驚愕させるのだと思う。 先稿でも書いたとおり、日本流「おもてなし」の根幹に利他的精神があるからに他ならない。
《ご参考》
日本五輪快進撃の理由
2021.8.4公開/日本文化チャンネル桜・別館
キャスタ-;水島総、水野久美
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