齢70を超えた今日、将来に希望を抱くより、おのれの半生を顧みることのほうが多くなった。世相に流されて若い頃にはサヨク的だったりもしたが、概ね右でも左でもない普通の平凡な一国民であろう。
ただ、専ら教育学を学んだ者としては、現代を肯定的には見ていない。教育の三本柱とされる知育・体育・徳育のうち、戦後は政治的思惑が入り乱れて徳育の方向性が定まっていない気がする。因みに、戦前は国史(日本史)・地理・修身が教育三本柱だったとか。戦前の「修身」と戦後の「道徳」は、似て非なる必修科目と言わざるを得ない。
文字通り解釈すると、「修身」が他者とは無関係な自己研鑽型学問であるのに対し、「道徳」は集団生活に必要な倫理道徳を身に着ける学問である、社会に適合する人材育成という目的は同じなのだが、学ぶ側(子供)の視点に立ったららどうだろう。前者(修身)が”自分が主役”になれるのに対し、後者(道徳)は”集団の中の一人(つまり端役)”に過ぎない。この差は意外に大きく、サヨクに与するわけではないが”道徳教育は価値観の押し付け”と映るのかもしれない。
結局、戦前教育の大本が【教育勅語】にあるとすれば、戦後教育の歪みは【日本国憲法】に元凶があるとみる。いまさら【教育勅語】を復活せよとは言わないまでも、GHQのWGIP(戦争に対する罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画)に基づく【日本国憲法】を早急に破棄すべきである。煎じ詰めれば、国家の主体性を忌避した「亡国憲法」だからである。護憲(憲法を遵守)に励めば励むほど、「無責任」かつ「利己主義」に走るような仕掛けになっている。
我が「教育」の原点は、次の一節にある。
人は専制支配下に置かれようとも、個性が生き続ける限り、最悪の事態に陥ることはない。逆に個性を押し潰してしまうような政治は、それが如何なる名前で呼ばれようとも、まさしく専制支配に他ならない。
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873;英国の政治哲学者)
よい日本人になるには、ちゅうぎのこゝろを、もたねばなりません。おとうさんや、おかあさんには、こうこうをつくし、きょうだいとは、なかよくし、ともだちには、しんせつにし、めしつかいをあわれみ、きんじょの人には、よく、つきあわねばなりません。
なにごとにも、しょうじきで、こゝろのとがめるようなことをせず、ゆうきがあって、しんぼうづよく、ものごとに、あわてぬようにし、じぶんのことは、じぶんでし、そして、なんぎをこらえねばなりません。また、からだをじょうぶにし、けんやくをまもって、しごとに、せいださねばなりません。
そのほか、れいぎをまもり、じまんをせず、おんをうけては、わすれぬようにし、人をそねむようなことなく、どりょうを大きくし、人のものを、だいじにせねばなりません。
かように、じぶんのおこないをつゝしんで、よく、人にまじわり、そのうえ、よのため、人のために、つくすように、こゝろがけると、よい日本人になれます。
小学館文庫『尋常小学修身書』第三学年用(第一期1804-1909年版)より
書かれた内容を全否定してみると、正邪がはっきりする。おそらく誰も否定し得ないのではないか。強いて挙げれば現代の世相からして「忠義」かもしれないが、国家や主君(帰属組織体)に、私欲を捨てて誠を尽くすのが当然であろう。この授業のキモは「世のため人のために尽くす」にあると思う。
*ご参考*
大人のための修身入門
第七回「よい日本人とは?」 講師:小名木善行氏
同じ三年生用でも文言が異なるのは、こちらが後年の教科書だからだろう。、この動画は、漢字の意味に関する解説も入っており、理解しやすい。二十回のシリーズ物で、全てがお薦め。
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