背番号【24】は、言わずと知れた我がライオンズ唯一の永久欠番(稲尾和久投手)である。
背番号【24】の系譜
01.小田野柏(外野手)・・・1951-1952
02.八浪知行(外野手・捕手)・・・1953-1955
03.稲尾和久(右投手)・・・1956-1972
04.古賀正明(右投手)・・・1976-1978
05.トニー・ミューサー(一塁手・外野手)・・・1979
06.小川史(遊撃手・指名打者)・・・1979-1981
07.秋山幸二(外野手・三塁手)・・・1982-1986
08.ジョージ・ブコビッチ(外野手・指名打者)・・・1987
09.平野謙(外野手・指名打者)・・・1988-1993
10.小野和義(左投手)・・・1994-1997
11.金村義明(一三塁手・指名打者)・・・1997-1999
12.眞山龍(右投手・出場記録なし)・・・2000-2005
13.松永浩典(左投手)・・・2006-2010
14.ライアン・マルハーン(指名打者・一塁手)・・・2011
【註】2012年永久欠番制定
憶えているのは、「03」「04」「07」「08」「09」「10」「11」「13」、結構知ってるな。しかし、実際の試合を観て知ってるのは稲尾投手だけ。球速もそれなりにあったが、驚くほどではなかった。どちらかと言えば、制球力で勝負する技巧派投手ですね。指名打者制度など未だなかった頃で、投手も打席に立った。高校時分にエース兼四番打者を務めていた稲尾投手は、プロ入り後も野手顔負けの打撃をみせ、投げて完封・打って自ら本塁打のワンマン試合を幾度か記録している。しかし、榎本喜八選手(毎日オリオンズ)が大の苦手で、何処へ投げても綺麗に安打されるため、対榎本専用球(フォークボール)を編み出したという。事実、榎本選手が打席に立つ度にワンポイントで左腕投手にマウンドを譲り、臨時右翼手になる試合を何回か目撃している。1969年(昭和44年)、西鉄稲尾監督が『若手の手本に』と、その榎本選手を招聘し、西鉄が現役最後の球団となった。ただし、榎本打撃理論は難解だったためか、両者の意図は水泡に帰している。後年、稲尾自身が語っているように、稲尾と榎本の対決は、単なる試合(ゲーム)というより、むしろ果し合いに近い命懸けの真剣勝負だったらしい。
続いて背番号【25】。こちらは、我らが斬り込み隊長高倉照幸外野手のイメージですね。
背番号【25】の系譜
01.永利勇吉(外野手)・・・1961-1953
02.高倉照幸(外野手)・・・1954-1966
03.下須崎詔(外野手)・・・1967-1971
04.大田卓司(外野手・指名打者)・・・1972-1986
05.安部理(外野手・指名打者・一塁手)・・・1987-1996
06.青木和義(外野手・出場記録なし)・・・1997-2000
07.大沼幸二(右投手)・・・2001
08.内薗直樹(右投手)・・・2002-2004
09.正津英志(右投手)・・・2005-2009
10.岩崎哲也(右投手)・・・2010-2011
11.星孝典(捕手)・・・2012-2016
12.平井克典(右投手)・・・2017-2018
記憶にあるのは、「02」「04」「05」だけ。前世紀は外野手の背番号だったみたい。高倉外野手のプレーは、平和台球場で何度も観ている。概ねトップバッター(斬り込み隊長)だったから、下位チームとの対戦など、先頭打者本塁打で勢いづくと、後が止まらず初回に大量点を奪って早々と試合を決めることも多かった。当時、“野武士軍団”と呼ばれた強力打線は、現埼玉西武打線と似てなくもないが、昔のほうが投手陣も強力で投打のバランスがとれてた気がする。そこへゆくと、現打線は確かに強力かもしれないが、投手陣が守りきれず、大量点で勝ったり負けたりの大味なゲームが多いし、肝腎な試合を落とすなど勝負弱いのが難点。
西鉄黄金期の外野は、関口清治(左翼)、高倉照幸(中堅)、大下弘→玉造陽二(右翼)でほぼ固定されてましたね。残念なことに高倉選手は、今年二月にお亡くなりになったとか。なにせ60年以上昔の話ですからね。
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