昭和31年(1956年)のパリーグ第8位(要するに最下位)は高橋ユニオンズ。そもそもこの球団は、昭和29年~昭和31年(昭和30年のみ「トンボ」-(株)トンボ鉛筆傘下-と称した)の三シーズンしか存在しなかった。当シーズンは既に引退していたものの、沢村栄治と並ぶ戦前の伝説的大投手V・スタルヒンが在籍していたことで有名。
154試合52勝98敗4引分勝率.351
首位西鉄とのゲーム差45.5、監督笠原和夫(背番号4;35歳)
笠原監督といえば「南海」のイメージが強い。事実、一リーグ時代から南海でプレーしていた。昭和29年に当該球団へ選手として移籍してきた人。そうして前年(昭和30年)のシーズン途中で浜崎真二監督の後を受けて監督に就任している。交代の理由は不知。
主力野手(打撃順)
・6・・佐々木信也(二塁手・22歳)/打率.289・打点37・本塁打6・盗塁34
・1・・前川忠男(遊撃手・27歳)/打率.220・打点25・本塁打4・盗塁11
・33・・石川進(中堅手・23歳)/打率.277・打点25・本塁打3・盗塁27
・5・・荒川宗一(左翼手・30歳)/打率.225・打点37・本塁打4・盗塁12
・9・・加藤一昭(一塁手・25歳)/打率.212・打点42・本塁打5・盗塁11
・7・・山田利昭(右翼手・23歳)/打率.203・打点19・本塁打3・盗塁7
・14・・北川桂太郎(三塁手・30歳)/打率.186・打点33・本塁打5・盗塁5
・2・・筒井敬三(捕手・33歳)/打率.200・打点19・本塁打2・盗塁1
レギュラー野手で知ってるのは、佐々木内野手と石川外野手の二人だけ。それも後年になってからのこと。佐々木選手は『プロ野球ニュース』(フジTV系)のキャスターとして、石川選手は《ダニー飯田とパラダイスキング》という歌謡グループのメンバーに同姓同名者(愛称“キューピー”ちゃん)が居たからにほかならない。
控え野手(代打・代走・守備固めなど)
・3・・兵頭冽(内野手・21歳)/打率.194・打点16・本塁打3・盗塁5
・23・・栗木孝幸(外野手・26歳)/打率.200・打点22・本塁打5・盗塁16
・26・・筒井眞次(内野手・20歳)/打率.174・打点16・本塁打1・盗塁7
・34・・青木惇(捕手・19歳)/打率.164・打点12・本塁打1・盗塁1
・45・・坂本木雄(内野手・21歳)/打率.197・打点7・本塁打0・盗塁4
・8・・河内卓司(内野手・35歳)/打率.258・打点17・本塁打0・盗塁2
・24・・飯山平一(内野手・21歳)/打率.195・打点3・本塁打2・盗塁1
・25・・萱原稔(外野手・25歳)/打率.190・打点9・本塁打4・盗塁0
・29・・山岸静馬(捕手・21歳)/打率.079・打点5・本塁打0・盗塁0
・4・・笠原和夫(内野手・35歳)/打率.267・打点13・本塁打1・盗塁0
控え選手は誰も憶えていない。笠原監督は選手兼任だったのですね。知らなかったけど、映画(1979年;岡本喜八監督)にもなった『最後の早慶戦』(松尾俊治共著)の作者でもある。但し、映画の原作は神山圭介著『小説・英霊たちの応援歌』(1978年)。笠原さんは昭和18年当時、早稲田の主将で四番打者(市岡中)。対する慶応の四番は別当薫(甲陽中)さんとある。因みに、河内(こうち)卓司選手(広島一中)が奇しくもその時の慶応側八番打者だったらしい。
投手陣
・18・・中野隆夫(右・23歳)/投球回数250.0/3・11勝19敗・防御率3.10・奪三振119
・11・・伊藤四郎(右・23歳)/投球回数323.2/3・21勝19敗・防御率2.00・奪三振177
・16・・滝良彦(右・26歳)/投球回数165.1/3・6勝20敗・防御率3.90・奪三振64
・28・・田中照雄(右・22歳)/投球回数165.0/3・7勝9敗・防御率3.22・奪三振57
・12・・山部精治(右・21歳)/投球回数55.0/3・0勝4敗・防御率4.75・奪三振18
・22・・吉岡史郎(左・20歳)/投球回数57.2/3・1勝4敗・防御率4.34・奪三振34
・19・・宮崎一夫(右・23歳)/投球回数90.0/3・2勝4敗・防御率4.00・奪三振39
・20・・相沢進(右・25歳)/投球回数57.1/3・1勝2敗・防御率4.66・奪三振14
・17・・飯尾爲男(右・22歳)/投球回数179.2/3・3勝16敗・防御率3.50・奪三振96
投手陣では、伊藤四郎投手だけだな。大映の稿で記した飯尾投手の名もある。現千葉ロッテマリーンズの背番号後継者については、毎日オリオンズ稿で既出につき割愛する。
【 後 記 】
昔の選手名を眺めていると、何だか“江戸時代”に遡ったみたい。
川崎徳次、飯田徳治、木塚忠助、大戸雄記、古川清蔵、戸倉勝城、榎本喜八
本堂保弥、石黒誠作、山田清三郎、水上静哉、鈴木圭一郎、坂本文次郎
八浪知行、菊池彰穂、笠原正行、小川善治、北川桂太郎、山岸静馬など
最年少十代新人選手でさえ戦前生まれだった。江戸幕末から88年目の昭和31年とあれば、歴史が確実に繋がっていたわけだ。戦前派だけで占められたプレースタイルは、米国流「ベースボール」とは似て非なる我国独自の侍然とした「野球」があった。今時のWBC代表チームを“侍ジャパン”の美称で呼ぶのは止めて欲しい。アプレ(戦後派)のみのプレーは、もはや「野球」とは言えない。(完)
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