映画・ドラマの放送録画を始めて三年近く経った。会社を辞めて10年以上になるが、同時にテレビを視ることさえ止めていたのだから180度の転換だ。止めた理由は単純明快、しようもない番組のオンパレードで視る気が失せたのである。この間の穴埋めとして、物珍しさがあった韓流ドラマに興味をそそられ、ネット配信やレンタルDVDで蒐集しまくった。だが所詮は異国物、文化の違いに違和感が増幅するばかり、かつ部品を挿げ替えただけみたいな似たり寄ったりの安易な作風にやがて嫌気がさしてしまった。
だからといって、いきなり国内ドラマに回帰したわけではない。きっかけはクラシック(古典音楽)絡みで、ウィーンフィルの『ニューイヤーコンサート』を視(聴き)たかったため。ところが、何時の間にか世はデジタル放送時代に変更を遂げており、既存のアナログテレビでは視ること能わず。やむなくアンテナ・TVチューナー一式を買い換えた次第。そんな折、BSフジで『鬼平犯科帳'75(丹波哲郎版)』(NET)が再放送されていた。これまで『鬼平-』といえば松本幸四郎(後の“白鴎”)版しか知らなかったが、番組のCMでCS292『時代劇専門チャンネル』にてそれが再放送中であることを知り、慌ててスカパー契約した。
以上は、これから書くことの単なる前振りにすぎない。かれこれ二年余り、大方の映画・ドラマは殆ど網羅した。このうち常時視たいモノは、モバイルHDD(2T)に落として旅先へまで持ち歩いている。そこで気づいたことは、時代劇がほとんどなれど、映画なら昭和30年代、ドラマの場合昭和40年代までにほぼ限られる。趣味の範疇に属することとて、個人的な好みによる偏りがあって当たり前。つまり、テレビ(のドラマ)を視なくなった時期と奇妙に符合する。
はっきりした境界線などあろうはずもないが、概ね上記年代が作風の転換期だったと観て差し支えあるまい。政治の潮流としては左翼(社会・共産主義)的傾向が強まった時代だけに、そうした臭いを嗅がぬではないものの、TVドラマに限れば余り関係ないと思われる。ならば、何が変わったのか。手前勝手な私見で恐縮ながら、「筆致」というか「書式」そのものが違う気がする。文学に喩えるなら、【叙情文】から【叙事文】に変わったのである。先だって昔の時代劇を浪花節的と称したのも、同じ理由に因る。別の書き方をすれば、登場人物の心情的動きに着目した物語だったのが、近時になるに連れて出来事(事件)中心の物語と化してしまう。要するに、制作者挙ってオツムが西洋流科学的合理主義に毒された証拠でもある。ゆゑに即物的作風に堕し、無味乾燥していて情感に乏しい無感動な作品ばかりが大量排出(?)される結果となる。
娯楽なのだからいろんな作品があって構わないと思う反面、如何に娯楽とは言え、単に面白可笑しいだけの品性下劣な低俗番組は御免蒙りたい。この「笑い」の点でも、質的変化が観られる。押し並べて昔の物ほど思わずニンマリさせてくれる高尚かつ上品な物が多い。それがやがて嘲笑を誘うような嫌味が伴う物へと変質してしまうから正視に堪えない。
そもそも日本人の伝統的な物の観方・考え方は、西洋のそれとは対極にあった。だからといって双方の優劣を論じるのが本旨ではないし、またそうした性質の問題でもあるまい。ただ、ご先祖様は諸外国とはまったく異なる独自の精神文化を保っていたということ。それが、義理と人情の挟間で苦悶葛藤する浪花節的心情であることは言うまでもない。
長寿番組の一つ『鬼平犯科帳』を例にとると分かり易いかもしれない。四代(松本幸四郎→丹波哲郎→萬屋錦之介→中村吉右衛門)にわたっているが、オリジナル版のうち、浪花節的要素が強いと思われる作品ほどリメイクされていない(下記参照)。リメイク作であっても、後年になるに従って、情感細やかな浪花節的色彩が失せて行く。
☆ リメイクされていないオリジナル(松本幸四郎)版放送話
・1-24「八丁堀の女」(脚本;柴英三郎、監督;高瀬昌弘)
・1-36「白痴(こけ)」(脚本;桜井康裕、監督;小野田嘉幹)
・1-41「白浪看板」(脚本;桜井康裕、監督;久松静児)
・1-47「運の矢」(脚本;桜井康裕、米谷純一、監督;高瀬昌弘)
・1-53「おせん」(脚本;安藤日出男、監督;小松幹雄)
・1-59「おっ母ァ、すまねえ」(脚本;小川英、監督;野長瀬三摩地)
・1-64「女の一念」(脚本;米谷純一、監督;小松幹雄)
・2-6「おしげ」(脚本;安藤日出男、監督;若林幹)
・2-14「平松屋おみつ」(脚本;下飯坂菊馬、監督;吉村公三郎) など
現代劇なら[刑事物]に属するドラマだが、西洋流科学的合理主義などなかった時代、後年の「証拠(物証)・証拠」と騒ぎ立てる証拠第一主義の有様は、違和感を通り越して滑稽でさえある。【大岡裁き】ではないけれど、伝統的に我国は物証(事実)より背後に隠された心証(人情)を大切にしてきたのである。
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