先日、懐かしのTVドラマで、昔の子供向けTV映画のことを書いた。当時(昭和30年代)の映像が、偽りのない真実の【旧き佳き日本】を物語っており、懐かしさとともに万感が込み上げてくる。何故だろう? そこには、『物質的な豊かさよりも心の豊かさ』といった風情の遠い我らが祖先より永々と継承されてきた『日本人固有の心情』が、満ち溢れているからに他ならない。虚仮威しの映像技術を誇示するばかりで、視る側の共感や感動を呼び覚ますには程遠い昨今のTVドラマとはわけが違う。
約半世紀(50年)の歳月が、制作者・視聴者双方を変質させてしまったのか。つまり、現代人の価値観が完全に倒錯し、『心の豊かさより物質的な豊かさ』を追い求めるようになったのか。先祖伝来の崇高な精神を忘れた物欲塗れの《一億総下衆》に成り下がったというのは事実なのだろうか。斯く言う私奴とて例外ではないが、《一億総ゲス》は言い過ぎかも知れない。
子供の頃、神社仏閣を通る際には、学帽を脱いで軽く一礼していた。学校や親から、そう躾けられたわけではない。みんな(子供たち)がそうするので、見様見真似で自然と身に付いた習慣に過ぎない。しかし、成人してからというもの、すっかり忘却して久しい。ところが、こうした旧き佳き伝統は、現代の子供たちと言えども、しっかり受け継がれていることを近年になって思い知ることになる。変わったのは《世の中》ではなく、誰在ろう己自身だったのだ。
と言うのも、小中学生時分を九州大分市で過ごした自分は、今でも度々旅行する。そして、大分縣護國神社の麓に住んでいた関係があって、毎回必ず詣でている。その際、参道や境内で此所を遊び場にしていると思われる当地の子供たちに出会すが、見知らぬ当方にも決まって「こんにちは」と声を掛けてくる。手水場では、誰に向かって言うではなく「使わせて貰います」と呟いている。みんな自分が歩んできた道と同じである。
展望台から見下ろす景観は一面の田園風景から臨海工業地帯を臨む大都会の姿に形を変え、住む人も他県からの移住者が大勢を占めるほどに変貌を遂げてしまった。だが、何時の世も変わらぬのが人々の心根であることを知覚し、意を強くした。堕落したのは日本国民全体なんかでなく、【第四の権力】に祭り上げられて思い上がったマスコミ連が、あたかもそうであるかのように見せかけているだけである。国民のほうがよほど賢明であり、そんなことはとっくの昔にお見通しなのである。論より証拠、大衆メディア自体が様変わりしたとは言え、視聴者のTV離れがコトの真相を雄弁に物語っている。
そこへ行くと昔のTVドラマや映画は素晴らしかった。今日のように視聴率を獲ろうとか(愚かな)視聴者を啓蒙してやろうといった一切の邪念を振り払い、視聴者と同じ目線に立って番組制作に励んでいたからだろう。例えば、先日採り上げた『まぼろし探偵』(昭和34年;ラジオ東京放送TV=現TBS)。作品自体は安っぽく幼稚だが、分業化が進んだ現代と違ってスタッフ並びに出演者に一体感があり、家族的な雰囲気を醸し出している。演技は下手なりに一所懸命演じている様子が窺える。何より、番組全体が明朗快活で視ていて清々しい気分にさせてくれる。また、悪役でさえ丁寧語・敬語が頻出する台詞が耳に心地よい。これらは、みんな最近のドラマに欠落している要素ではなかろうか。
嬉しいことに、スタジオ撮影よりロケ・シーンが多用されており、丸の内・銀座・千鳥ヶ淵・池袋・芝浦・東村山・横浜・丹沢・大菩薩峠などが出てくる。いやはや、都心と言えども人影まばら、池袋東口なんかビルと呼べるのは西武百貨店ぐらい。残りは殆どが普通の平屋といったありさま。千鳥ヶ淵でさえ人里離れた山林地帯といった風情で、ビルはおろか人家さえ写っていない。東村山に至っては最早ド田舎。駅は片面ホームだし、西武新宿線は二輛連結だけのマッチ箱型電車。駅周辺も民家らしき家屋が数軒在る程度。
チョット視では気付かなかったけど、まぼろし探偵(=富士進)の妹役で渡辺典子さんが出演している。この名は、角川映画三人娘(薬師丸ひろ子、原田知世)の一人のほうが有名だが、まったくの別人である。こちらは昭和20年代後半から童謡歌手として成らした人。ともに三共製薬「ルル」のCM歌手だった共通点を持つ伴久美子さんと同じく、40歳代で夭折なさったらしい。
幼少の砌、ラヂオを通してよく耳にしたなぁ。おぉ、懐かしい。
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