パ・リーグで西鉄のライバルは南海に違いないが、二リーグ分裂直後の毎日もなかなか強豪だった。事実、第一回日本シリーズを制覇して史上初の日本一に輝いたのは、巨人でも南海でもない「毎日オリオンズ」であった。そんなことがあってか、観戦した西鉄の対戦カードとしては、南海戦と並んで多かった気がする。ただし、父に連れられて球場へ足を運んでいたのは昭和28年~昭和31年頃(5歳~8歳)で、その頃のオリオンズはオールドスターが目立って昔日の面影を失くしていた。それでも、後年「ミサイル打線」と呼ばれた榎本、山内、葛城と続くクリーンアップトリオは、なるほど脅威ではあった。
守備 | 野 手 名 | 背番 | 打率 | 打点 | 本塁打 |
三 | 小森 光生 | 2 | .232 | 32 | 6 |
右 | 荒川 博久 | 22 | .265 | 34 | 3 |
一 | 榎本 喜八 | 3 | .298 | 67 | 16 |
左 | 山内 和弘 | 8 | .325 | 99 | 26 |
捕 | ル イ ス | 28 | .261 | 73 | 9 |
中 | 三宅 宅三 | 27 | .276 | 46 | 15 |
二 | 島田 恒幸 | 7 | .228 | 28 | 2 |
遊 | 岡田 守雄 | 6 | .177 | 6 | 0 |
別当 薫 | 25 | .276 | 24 | 4 | |
有町 昌昭 | 9 | .200 | 18 | 1 | |
本堂 保弥 | 24 | .212 | 10 | 1 | |
呉 昌征 | 23 | .329 | 23 | 1 | |
沼沢康一郎 | 4 | .204 | 14 | 1 | |
萱原 一美 | 57 | .235 | 10 | 0 | |
葛城 隆雄 | 31 | .169 | 5 | 2 | |
西本 幸雄 | 5 | .167 | 6 | 0 | |
佃 明忠 | 19 | .234 | 5 | 2 |
投 手 名 | 背番 | 投球回 | 勝 敗 | 防御率 | 奪三振 |
和田 功 | 17 | 220.1 | 18- 6 | 2.24 | 170 |
植村 義信 | 18 | 220.0 | 17-10 | 2.13 | 146 |
中川 隆 | 48 | 229.0 | 18-11 | 2.08 | 145 |
荒巻 淳 | 11 | 245.0 | 18-12 | 2.35 | 130 |
山根 俊英 | 14 | 91.0 | 3- 5 | 2.37 | 24 |
榎原 好 | 12 | 98.0 | 4- 5 | 3.31 | 63 |
宮崎 一夫 | 15 | 77.1 | 4- 1 | 2.19 | 46 |
清水 宏員 | 10 | 42.2 | 1- 2 | 3.98 | 13 |
火の玉投手荒巻、プレーイングマネージャー(監督兼選手)の先駆者別当、シュート打ちの名人山内、安打製造機の榎本、みんな懐かしいなぁ。後の名監督西本、榎本・王ら早実勢の先輩且つ師匠に当たる荒川、『ミユキ野球教室(日テレ)』の常連沼沢、彼らはオリオンズの現役選手だったのですね。記憶に残っているシーンは、測ったように一二塁間の真ん中を抜けていく榎本の打球。自ら代打に出て三振を喫した別当に浴びせられる狂喜の野次。腕を畳んで放つ山内の本塁打(中西の弾丸ライナーとは対極に位置する放物線を描くような滞空時間の長い打球)など。
*ご参考*
毎日オリオンズ選手名鑑(昭和32年)
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