邦人作曲家を語るうえで映画・TV音楽など持ち出したため、時系列が逆になってしまった。本邦に於ける西洋(クラシック)音楽の先駆者といえば、軍歌軍楽方面では瀬戸口藤吉、信時潔、大沼哲、歌曲唱歌童謡方面が伊沢修二、小山作之助、岡野貞一、滝廉太郎、本居長世、山田耕筰、中山晋平、佐々木すぐる、弘田龍太郎、成田為三、河村光陽、下総皖一らの名が挙がる。
このうち郷土(大分)の偉人滝廉太郎を採り上げねばなるまい。自分は福岡県生まれだから“郷土の偉人”と呼ぶには些か後ろめたいが、運輸省役人だった父の転勤により小四(昭和32年)~中三(昭和37年)の五年四ヶ月間、大分市内で暮らした。その関係で、小中学校とも滝廉太郎に囲まれて学問を授かったといってよい。
例えば次の曲。
滝廉太郎作曲-幼稚園唱歌『さようなら』(明治34年)
作詞;東くめ
今日のけいこも、すみました
みなつれだって、帰りましょー
あしたもまたまた、こゝに来て
けいこやあそびを、いたしましょー
先生御機嫌よー、さよーなら
小学校低学年クラス授業終了の挨拶歌だった。自分は転校してきたのが小四時だったので歌ったことがないけれど、毎日学窓越しに聴いていて歌詞も憶えている。ただし、YouTube動画と異なる点は、聴いていたのが小三以下児童合唱だから、もっとテンポがよくてノリのいい明朗快活な歌という印象がある。
『花』『箱根八里』『荒城の月』などの有名曲も、もちろん授業を受けた。然りとて当時、九州の田舎者にとって東京の隅田川(『花』)や箱根の山など観たこともなく、どうも今ひとつピンと来なかった。その点『荒城の月』は、小五時(昭和33年)に豊肥線(口に出すのが憚られそうな命名ではある)に沿って熊本までの社会見学旅行があり、その際、豊後竹田に在る曲縁の岡城址にも寄っていて思い入れが深い。
滝廉太郎作曲(作詞;土井晩翠)-『荒城の月』(明治33年)
by 伊藤久男
この曲は男女混声合唱で歌われることが多い。しかし、男声(バリトン)が独唱で朗々と歌い上げることにより、はじめて本来の“栄枯盛衰”を表す曲趣に叶う気がする。その意味で伊藤久男版も悪くないが、自分は同じ大分県(大分市)出身の立川澄人(バリトン)が歌ったピアノ伴奏版を好む(ネット上に音源なし)。
滝廉太郎を“郷土の偉人”などと祭り上げておきながら、「遺作」に関してはまったく知らなかった。恥じ入るばかりである。
滝廉太郎作曲-ピアノ独奏曲『憾(うらみ)』遺作(明治36年)
by 佐藤麻美子
23歳という若さで早世しただけに、遺作の『憾(うらみ)』という曲名から、彼の才能を妬んだ当時の文部省役人による謀殺説まで巷間囁かれる始末である。確かに「憾」の字は「うらみ」と訓読みするが、字義としては“強く心残りを感じる”といった意味合いにすぎない。
おそらく、死期迫る己が身に“強く心残りを感じた”のだろう。ライプチッヒ留学中に病んだ彼を、帰国後わざわざ殺害するのも不自然。謀殺説は後付の誤った見方だと思う。曲調が“コトの真相”を明らかにしてくれる。特定の誰かを「恨む」様子など皆無。所謂【白鳥の歌】と呼ぶにふさわしい澄みきった響きだけが聞こえてくる。それは、死を目前にした最後のリサイタルで弾くディヌ・リパッティのピアノ独奏を初めて聴いたときの感動と同じものである。
*ご参考*
シューベルト作曲-『即興曲』D899-3
by ディヌ・リパッティ(ブザンソン告別演奏会実況録音;1950年)
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