大分へ来たら必ず立ち寄る場所が、大分縣護国神社。1957年(昭和32年)4月から1962年(昭和37年)7月まで、拝殿裏の麓に住んでいた関係で、神社境内は恰好の遊び場だったし、「我が心の故郷」でもある。
最初にその“我が家”を尋ねてみたところ、住居は取り壊されて空地と化していた。昨年まで、ガレージに改造されていたものの、当時の面影を留めていたのに、残念至極。仕方なく隣家の表札を観たら当時のままだった。突然で恐縮しながら門を叩いたら、意外にも老夫婦が出てこられた。
つまり、当時県警勤務だったご夫妻である。まだ子供だったので、この家の長男のほうが記憶にある。確か4つほど年下だったが、大学受験を前に早世されたのだとか。思い起こせば、彼が幼稚園児の頃、貯水池で溺れていたのを、大人たち総出で助けられ命拾いしているのに、人生とはわからないものである。
さて、護国神社詣では、休日(土曜)のせいか、いつもより参拝者が多かった。靖国神社や護国神社と言えば、「桜の花」が付き物で無論この神社にもあるが、大分縣と言えば県花にもなっている「豊後梅」。展望台の所では、その紅梅、白梅が満開であった。
神社の付属施設「言霊記念館」の入口には、プロペラと弾痕著しい鉄扉が展示されている。当時はてっきり百人力焼酎工場の鉄扉だとばかり思い込んでいたが、戦中は第十二海軍航空(海軍大分航空隊)廠高城発動機(エンヂン)工場だったらしい。
当時、自分の家の前に海軍大本営の防空壕がそのまま残っており、エンヂン工場まで繋がっていた。そのせいか、零戦エンヂンの残骸があちこちに転がってましたよ。さすがに今や防空壕の痕跡はなく、明治大分水路のトンネル(子供だったから通り抜けられた)も取り壊されて跡形もなくなってますね。
参道入口には、「下馬」という古い木札が立っていたはずだが、何時の間にか取り外されていた。まぁ、今となっては馬に乗って来る参拝者などないので仕方ないが、昔を偲ばせる風物が次々と失われていくのは寂しい限りである。
夕方から、小学校時代の同窓生と会食した。昨夜慌ただしく連絡したにも拘わらず、6人もの旧友が集まってくれた。まことに有り難いことである。自分を棚に上げて書くと、凡そ半世紀(50年)ぶりに会う連中ばかりなので、「浦島太郎」みたいな心境になってしまった。面白いことに、彼らの両親を知っている場合、その両親の姿が今の彼らと生き写しである点。
昔話が弾んで午後10時を過ぎてしまい、最終バスに乗り遅れてしまった。子供時分は、市中心部まで約一里(4㎞)の道のりをよく歩いて行ったものだが、小雨降るなか、老人の足には結構遠く感じた。
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