ネットでのニュースを読んでいたら、こんな(↓)記事があった。
視聴者とBPO(放送倫理番組向上機構)のどちらかに与するつもりはないが、ドラマに限って言えば、年々つまらなくなっているのは事実。その一因がBPO自主規制にあることは、疑いようもない。物語が総じてぬるま湯的なうえ、一方的な主義主張の押し付けだからだ。
BPO自体、『放送番組向上委員会』創立が1965年(昭和40年)で、昔ながらの団体である。しかし想像するに、1997年(平成9年)『放送と人権等権利に関する委員会機構(BRO)』と改称した頃からおかしくなったのではなかろうか。『人権』『権利』とかの戦後的語句が入り込んでいて、何やら怪しい。
引用記事にある番組『11PM』(1965~90年)と『ギルガメッシュないと』(1991~98年)の放送時期を照合すると、やっぱり上述と符合している。CS放送『時代劇専門チャンネル』を契約している関係上、昭和期のテレビ時代劇をよく視るが、おっぱいボロリ、晒し首(もちろん贋物)などエログロてんこ盛りである。必ずしもそれを好しとするわけではないが、内容が刺激的ゆゑに人間味溢れる《生気》が漲って見える。
なお、今日の放送規制語(いざり・めくら・乞食など)が出て来る当該番組の放送終了時、決まって次のテロップが添えられる。
ご覧頂きました作品には、現代においては不適切と思われる表現がありますが、製作当時の時代背景や、原作者、製作者の意図を勘案し、オリジナルのまま放送させて頂きました。
だが、今日に近づくにつれ、様々な規制によってドラマから《生気》が殺がれ、まるで“人形劇”でも視せられるかのよう。御贔屓の『鬼平犯科帳』とて例外ではない。三代にわたる昭和期版と平成に入ってからの四代目鬼平役中村吉右衛門版では、大きく視聴感が異なる。
初期作品ならまだ観賞に堪えうるが、今世紀に入ってのスペシャル版となると、もういけない。如何に“はまり役”とはいえ、鬼平役を四半世紀(25年)も続けていれば、どうしても老いの衰えは隠しようがない。それも男どもならまだしも、久栄(多岐川裕美)・おまさ(梶芽依子)などの女優陣まで世代交替していないので、痛々しくさえ思えてしまう。
ところで、原作小説『鬼平犯科帳』第六話《暗剣白梅香》のTVドラマ版について、嘗て記事にした記憶がある。
*ご参考*
この時はまだ原作を読んでおらず、松本幸四郎('69年)版も萬屋錦之介('81年)版も未見だった。今では、原作を読み四代にわたる鬼平各版も視聴済なので、改めて対比を試みよう。
TVドラマ四作品とも原作にない鬼平関係者以外の登場人物が出て来る。原作自体が短篇のため、物語を膨らまさないと20分程度で終わってしまうから仕方がない。原作のキモは「仇討ち」にあり、18歳にして仇討ちの旅に出た金子半四郎と仇相手の森為之助(鶴や利右衛門)。20年後、双方が偶然に出喰わす人生の皮肉が描かれている。金子は仇捜しに疲弊し、人斬り稼業に身をやつしていたが、つひに巡り会った森を仇とも知らず返り討ちに遭って死ぬ、というもの。
大筋はTVドラマも上述の原作と変わらない。決定的に違うのが、金子の処世観と終結部。原作では、鶴や利右衛門が岸井左馬之助の知人というだけで、金子の処世観に触れた記述はない。しかしドラマでは、金子が人生をやり直そうとする内心の変化にスポットライトが当てられる。また終結部も、原作では鬼平と金子が斬り結ぶ前に森の包丁によって返り討ちにされるが、ドラマは不意を襲われて鬼平危うしの場面で、金子の背後を襲った森から亡き者にされる。甚だしきは中村版で、森の業務用包丁でなく道中差しで刺し殺される。
当然ながら、テレビ版終結部にある鬼平と関係者の会話も、原作にはない。テレビ各版の微妙な違いは、監督・脚本に依るところが大きいのかも知れない。
★ 松本版('69)=高瀬昌弘(監督)、小川英(脚本)
岸井(加東大介)、金子(江原真二郎)、森(小栗一也)
原作にない登場人物・・・おえん(真山知子)
★ 丹波版('75)=小野田嘉幹(監督)、小川英(脚本)
岸井(田村高廣)、金子(木村功)、森(稲葉義男)
原作にない登場人物・・・おえん(藤田弓子)
★ 萬屋版('81)=高瀬昌弘(監督)、小川英(脚本)
岸井(神山繁)、金子(地井武男)、森(伊沢一郎)
原作にない登場人物・・・おえん(松金よね子)
★ 中村版('89)=小野田嘉幹(監督)、小川英(脚本)
岸井(登場せず)、金子(近藤正臣)、森(牟田悌三)
原作にない登場人物・・・おえん(西川峰子)
ありゃりゃ、脚本はすべて同じだし、監督も二様の違いあるだけ。ということは、制作時の《世相》が主因なのかなぁ。印象的なのが、終結部の金子と鬼平の対決場面。オリジナル(松本)版の双方沈黙睨み合いが、尋常でなく長い。モノクロ映像と相俟って、弥が上にも緊迫感が増幅して堪らない。男たる者、昔は寡黙を是としていたはず。おしゃべりな男は、軽薄に映ってサマになりませんからね。科学的合理主義が持て囃される昨今、《沈黙こそモノを言う》ことを忘れてはいまいか。
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