記事ネタがなくて暫時開店休業状態だが、《困ったときの神頼み》ならぬ《困ったときの『鬼平犯科帳』》。鬼平役全四代にわたるTV版『鬼平犯科帳』は、中村版の一部に未見があるものの、殆どを網羅した。原作小説(文庫本)も、発表初期の前半作品のみながら手許にある。
たかが『鬼平犯科帳』、されど『鬼平犯科帳』である。原作小説は大抵が短篇集といった類のため、物語の展開に関係ないエピソード等は省かれた簡潔な記述となっている。また、TV放映とほぼ同時期に書かれたようで、屡々小説よりテレビが先行することもあったらしい。つまり必ずしも《始めに“原作”ありき》ではなく、TV版オリジナルを後に小説化したものもあるとか。何だかややこしい。
小説と違ってTVドラマの場合、“撮られた時代”が反映していて興味深い。一例として『谷中いろは茶屋(川越の旦那)』を挙げる。TV版は喜劇仕立てかつ“言葉遊び”などもちりばめられていて、原作(小説)より遙かに面白い。脚本はすべて井手雅人。監督は小野田嘉幹(松本版、丹波版)、山田達雄(萬屋版)、井上昭(中村版)と変わるが、いずれも終戦時既に成人していた戦前世代の人たちである。
しかし同じ作品でも、松本版≒丹波版>萬屋版>中村版の順に評価が分かれる。多分に手前勝手ではあるが、リメイクされる毎につまらなくなっているということ。喜劇性の源は、この話の主人公木村忠吾同心(古今亭志ん朝;松本版・丹波版、荻島真一;萬屋版、尾美としのり;中村版)のおバカなキャラクターにある。
ところが、中村版は単に愚鈍なだけとしか見えないし、萬屋版もヘラヘラしていてまったく頼りない男としか映らない。ゆゑに、カネがないうえ何の取り柄もない男がどうして女郎お松(春川ますみ;松本版、川口晶;丹波版、児島みゆき;萬屋版、杉田かおる;中村版)に好かれるのか、なぜ鬼平に可愛がられているのか、よくわからない。
そこへ行くと古今亭志ん朝は、本業が噺家だけあって木村同心の持つ硬軟両面を巧く表現している。例えば、茶屋を出たところで《旦那、鼻毛が伸びてますぜ》と職人たちにからかわれる場面では、《こらっ!》と大声で怒鳴り返している。萬屋版、中村版の同場面にはそれがない。
なお、原作のお松はTV版女優連とはまるで正反対。【痩せて浅黒い肉体】をしていて、決して男好きのするタイプではなさそう。また、《川越の旦那》こと兇賊墓火の秀五郎(神田隆;松本版、佐野浅夫;丹波版、長門勇;萬屋版、長門裕之;中村版)の持つ凶暴な側面の描き方が、凄味ある松本版神田隆を除いて甘い。人の好い一面ばかりが強調されて、物語のキモである二面性がぼやけてしまった。
原作における木村忠吾と墓火の秀五郎は、面識がなくてお互いの素性も知らないことになっている。ただ、《川越の旦那》が女郎お松に大金十両をくれてやった時の口上【人間という生きものは、悪いことをしながら善いこともするし、人に嫌われることをしながら、いつもいつも人に好かれたいと思っている】と、事件解決後鬼平が木村同心を諭す【人間という奴、遊びながら働く生きものさ。善事を行いつつ、知らぬうちに悪事をやってのける。悪事を働きつつ、知らず識らず善事を愉しむ。これが人間だわさ】の言葉が、この物語のテーマ。
人間の持つこの二面性。おのれの考え方に合致していて、『鬼平犯科帳』のなかでも特に気に入っている台詞である。それも、盗賊と取り締まる側の鬼平ともに、思考が一致しているところがミソ。【賢人に非ず愚人にも非ず、人皆是凡人】と謂ったのは聖徳太子とされるから、良かれ悪しかれ、古来より日本人の脳内に染み込んだ考え方なのだろう。
もう一つ、原作にないちょっとした“言葉遊び”が、TV版には隠されている。《川越の旦那》が“川越の古狸”なら、木村忠吾は“兎忠”と呼び合う仲。冒頭、木村と同心仲間のやりとりでは“尻尾を捕まれるなよ”との言葉が出て来る。女郎お松を通じて《川越の旦那》から貰った小判を手に木村は、“まさか狐に化かされているんじゃないだろうな”などと宣う。そのお松も、音信不通になった木村のことを“鼬の道切り”と表現している。
何かにつけオリジナルの松本版を高く評価するのは、断片的にせよリアルタイムで視た記憶の懐かしさだけではない。一話一話で捉えるとそれぞれ違ったテーマがあり、物語の主人公も必ずしも鬼平だけではないにも拘わらず、全篇を通して視るとレギュラー・準レギュラー陣の人柄が、よく理解できるようになっている。鬼平とて、ときには勘働きを外すこともある。つまり、鬼平と雖も鬼でなければ神仏でもない何処にでも居そうな普通の人間(すなはち“凡人”)として描かれる。
それがどうだろう。丹波版、萬屋版、中村版と、今日に近づくにつれて鬼平は完全無欠の《超人》になってゆく。ほかのレギュラー陣の賢愚もはっきり色分けされてゆく。鬼平こと長谷川平蔵(1745-1795)は実在した人物だが、『鬼平犯科帳』として池波正太郎が小説にした時点で、物語そのものはフィクション(作り話)に過ぎない。
唯一の実話は『妖盗葵小僧』だけ。今で言う凶悪な【連続強盗・強姦事件】である。史実や小説『鬼平犯科帳』中の《葵小僧》像は、ウィキペディアのとおり。TVドラマとしては、丹波版にはなく中村版も未見だが、オリジナルの松本版が凄い。醜男という設定の葵小僧(早川保)の容姿には頓着せず、芝居がかった口上に声色を使い、幸せそうな男女を妬む異常な社会不適応者として描かれる。
史実や小説では、鬼平に捕縛されたあと、鬼平・老中の専断によりややあって処断せられたことになっているが、松本版では『強姦相手を全部暴露してやる』と開き直ったため、被害者の心情を思い遣ってその場で斬り捨てられる。白黒画面と相俟って、妖気漂う映像が堪らない。
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