前稿(8月27日付)をアップしたあと、在宅用のデスクトップパソコンに異変が生じ、TV視聴・録画が出来なくなってしまった。一般的な「テレビ」は持っておらず、PC用TVチューナーを上述パソコンに繋げて液晶モニターで視ていた。パソコンのほうは旅行用のノートPCで代用できるものの、いわゆる「テレビ」がないのでテレビ番組を視ること能わず。
ゆゑに翌28日、急遽パナソニックの安価(¥33,800-)なブルーレイレコーダーを購入するハメとなった。昔のビデオデッキのデジタル版だから、放送録画の使い勝手は良いが、内蔵HDDからDVDやBDへ移動(ムーブ)するのが恐ろしく遅い。取扱説明書に「ダビング」とあるとおり、ビデオデッキでダビング(等倍速)するのと変わらない。その点、PC用チューナー(バッファロー社製)なら4倍速程度でムーブ可能だし、編集も一コマ単位で精巧に出来る。
その後、パソコンの不具合(起動・終了とも異常に遅い・マウスカーソル暴走・ビジュアル系各種アプリ&プリンタの動作不良など)は、悪戦苦闘の末、システム復元機能を使って何とか修復できた。確かな原因は今以て不明だが、シロウト判断ではセキュリティソフトがクラッシュしたせいらしい。PC用チューナーも使用可能な状態に回復した。が、せっかくだから購入したばかりのレコーダーをメインにしている。
さて、「伝統的時代劇」と「戦後派時代劇」の続きである。分類自体が私奴独自の勝手な分け方だから、他人様にはわかりづらかろう。よって若干の説明を加えると、舞台となる時代に合わせたような戦前と同種の作風を「伝統的時代劇」、戦後的価値観による視聴者(現代人)迎合型(?)の作風を「戦後派時代劇」とした。
テレビは戦後になってのものだから、“テレビ時代劇”に戦前物は存在しない。したがって、比較対象は戦前の時代劇・戦争映画。TV時代劇を視ていて違和感の最たるものは、戦後的価値観に基づく「生命至上主義」が表面に出てきたとき。《生命は軽く義は重し》と教え込まれた戦前の日本人が、そんな卑怯な精神構造であったはずがない。況んや時代劇の江戸時代以前に於いてをや。
注目の『鬼平犯科帳』を例に採ると、八代目松本幸四郎のオリジナル版(昭和44~47年)でさえ、基本的には「生命至上主義」で貫かれている。それでも、中心となる制作スタッフや俳優が戦前を知る人たちだったためか、それが横溢しているほどの印象はない。むしろ、着物の着こなしや立ち居振る舞いは伝統的な日本人そのものである。
時代劇に限らず、当時(昭和40年代前半まで)のテレビドラマ(現代劇)を注意深く視ると、我が家がそうであったように、戦後生まれの子供どもは別として、家庭に居るときの父親は丹前姿だし母親は着物姿で寛いでいる。そう思えば、普段着が和装だったからこそ出来る芸当で、和服をほとんど着なくなった現代とは生活習慣がまるで違う。
その意味で現代の時代劇作りは、昔より一層の努力を要するものなのかも知れない。オリジナル版との比較に於いて、近時の二代目中村吉右衛門版を酷評してきたが、俄に同情したくなってきた。
『鬼平犯科帳』で好きな鬼平の言葉に、【人間誰しも良いことをすれば悪いこともする。悪行を働きながら、知らぬ間に善行を施している場合もある。】という趣旨の台詞がときどき出て来る。これぞ伝統的日本人の人間観ではなかろうか。例えば【善人でなければ悪人】といった何事にも二者択一的に黒白をはっきりつけたがる西洋人をデジタル型とすれば、日本人はあくまでファジー(曖昧)なアナログ型民族である。優劣や良し悪しを論うつもりはない。日本人と外国人(主に西洋人)では、思考の構造がまるで違うと言いたかっただけである。
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