7月28日付記事後、またぞろぐうたら病が出て一ヶ月近くも更新を怠けてしまった。しかしこの間、連日の猛暑はやうやう峠を越えたようで、堪えきれないほどではなくなってきた。
さて前稿でTV時代劇を「伝統的時代劇」「戦後派時代劇」に大別した。この分類が適当かどうかは別にして、'70年代にはTV時代劇の分野も戦後派(アプレ)が擡頭してきたことだけは確かである。左翼学生運動で鍛えられた我ら“団塊の世代”が卒業後、新入社員として各界に潜り込んだ時期と符合する。
お目当ての『鬼平犯科帳』とて例外ではない。先月、CS時代劇専門チャンネルと契約したことにより、まだ全話を網羅したわけではないが、オリジナルの松本幸四郎(八代目)版('69~'72年)から、丹波哲郎版('75年)、萬屋錦之介版('80'~82年)、中村吉右衛門(二代目)版('89年~)まで全四代にわたる「鬼平」を視ることが可能になった。
このうち《暗剣白梅香(魔剣)》については、『鬼平犯科帳』に観る昭和と平成、御世の違い。(2014年1月25日付記事)で丹波哲郎版と中村吉右衛門版の感想を書いたが、最近になってオリジナル(松本幸四郎)版、萬屋錦之介版も録画済み。したがって四つの異なるバージョンが愉しめる。
《暗剣白梅香(魔剣)》をみても、同じ原作者(池波正太郎)・同じ脚本家(小川英)なのに、各々の版で微妙に違う。ただし監督は、高瀬昌弘(松本版、萬屋版)と小野田嘉幹(丹波版・中村版)の両版があるようだ。個人的な好みで書かせてもらうと、モノクロ映像のためか妙な緊張感を伴うオリジナル版の出来が最もよく、リメイクを重ねる毎につまらなくなってゆく気がする。
あくまで勝手な想像ながら、物語のキモは金子半四郎(江原真二郎→木村功→地井武男→近藤正臣)が鬼畜に等しい人斬り稼業から足を洗い人並みの生活をしたいと願うようになる心境の変化にある。ところが、平成になってからの版(巷間人気の高い中村版)は、昭和期の前三作に比して凄味に欠け、かなり手ぬるく感じる。
同じ台詞・同じ場面(登場人物や演出に若干の変更はある)にも拘わらず、果たして放送局が替わり役者も違うからだろうか。いや、それだけではあるまい。スタッフ・俳優陣の演出や演技とは無関係な、生活様式の変化が微妙に影響しているように思う。
つまり、制作スタッフも俳優も冷暖房の効いた場所で暮らし、特別な席でもない限り着物(和服)を着なくなった現代にあって、劇中とはいえ立ち居振る舞いが窮屈でよそよそしくなるのも無理はない。それに、物語の進行に関係ない場面が多く挿入され、抑揚のない台詞廻しといい人間味に乏しい人形劇でも見せられるかのよう。違和感の一つに、鬼平の妻久栄が仕事のことで口を挟むなど、江戸時代では考えられない例を挙げておこう。
『鬼平犯科帳』は原作自体が戦後書かれた小説であって、「戦後派時代劇」の範疇なのかも知れない。それでも、戦前・戦中を知る制作陣(含;俳優)が主体だったオリジナル版(昭和44年)は、随所に伝統的時代劇の残滓が観られる。決定的に違うのが価値(処世)観。
戦後物だから根本にあるのが生命至上主義に基づく現代的作風なのは仕方ないし、物語も「犯科帳」ゆゑに女賊を含む盗人・盗賊一味ばかり。若い頃放蕩三昧だった主人公の長谷川平蔵をはじめ、まともな人物が殆ど登場しない。
そんななか、オリジナル版第24話に《八丁堀の女》というのがある。今風価値観にそぐわない昔気質の女(北町奉行所与力の娘)が登場するせいか、後年一度もリメイクされてない(と思う)。全『鬼平犯科帳』中、“恥じらい”を持った女が出て来るのは本作だけではなかろうか。
それを演じる柏木由紀子(後の坂本九夫人)さんはお目々パッチリの甚だ現代的なご尊顔だが、好きな男の身体に触れるだけで恥じらいを覚える役柄を好演している。
父親が決めた許婚者の北町奉行所同心(石浜朗)が居ながら、彼の出世欲を嫌っている。そんな折、役目で訪れた堅物の酒井祐助(竜崎勝)と相思相愛の仲になる。しかし、父親が殉死した際、遺言状でその不祥事を知り、許婚者とも酒井とも縁談を断って亡き母親の郷里へ去るというもの。
嫌っていた許婚者との縁談を断るのは当然としても、現代的価値観を以てすれば、相思相愛である酒井の求婚まで断るのは理解できないであろう。しかし、鬼平の計らいで表沙汰にはなってないものの盗賊一味に加担した与力の娘であることが、火盗方同心酒井にとっては役目柄、必ず将来の重荷になると案じたためであった。
オリジナル版を褒めるあまり中村版を酷評したが、これはこれで別の味わい方があるものだ。
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