本日は、救う会大分の行事に参加してきた。子供時分の一時期を大分で過ごした誼により、出来る限り参加させていただいている。が、トキハ百貨店前の街頭宣伝・署名活動も、通行人の反応は鈍い。尤も、あまり他人様のことを批判できる立場ではない。自分だって、10年ほど前は熱心だったのに、最近は何かと理由をつけて遠ざかりがちなのだから。
講演会もお馴染みの顔ぶればかりで、とりわけ若い世代の参加がほとんどないのが気がかりである。倉山満氏の『拉致問題と憲法を考える』と題する講演は、当方の思いとほぼ同じである。ただ、どちらかと言えば氏は将来に対して悲観的な観方をされているようだが、自分は逆にわりかし楽観的である。つまり、『安倍政権でダメならもう終わり(人材が居ない)。』が氏とするなら、当方は『まだおのれ(国民)の尻に火が付いてない』と観る。
不謹慎とのお叱りを受けるのを承知で極論すると、北朝鮮が間違ってテポドンでも日本近海に打ち込んでくれさえすれば、『次は自分が殺られる』と切羽詰まった国民与論が一変すると思う。
改憲派にもいろいろあるが、多くは占領憲法(戦後『日本国憲法』)を前提とした改憲論であり、私奴のような無効(否定)論者(=『大日本帝國憲法』復活待望派)から観ると彼らは立派な「護憲派」に属する。その点、氏は『大日本帝國憲法』(明治憲法)を時代に合わせて改正しようという主張だから、一本筋が通っている。
ただ、明治憲法に戻しさえすれば、戦前のような凛とした国民に生まれ変われるか、と言えばそんな単純な問題ではなかろう。例えば『教育勅語』が良い例である。GHQの圧力で戦後まもなく廃止されてしまった。当然ながら戦後生まれの自分は、内容を知らずに大人になってしまったわけだが、そんなもの(と言ったら不敬に当たるかな)があろうとなかろうと、善悪・真贋・正邪・美醜の判断や生活様式は、行動に移せるかどうかは別にして、ちゃんと『教育勅語』の精神(十二徳目)に則っているから不思議である。そして、【義を見てせざるは勇無きなり】で、のちのち良心の呵責に苛まれることになる。
当たり前である、自分は「日本人」なのだから。
《追伸》
これですよ、これ(↓)。政治をどうこう論う以前に、「日本人」であることの原点は。
日本が嫌いだったのに…敵意が敬意に変わった理由、中国人を差別しない日本の懐の深さ
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