一昨日(19日)には大分から帰っていたのだが、歳のせいか旅疲れが出て更新を怠けてしまった。往路は新しいANAのB737-800型機だったが、復路は1995年製造で年季の入ったA320-200型機(機体番号JA8654)。旧装備のためVOD(ビデオスクリーン)すら備わっておらず、離陸前非常用設備の説明は、客室乗務員が自ら実演してみせていた。ビデオ上映で済ますのが常識となってしまった現在、久しぶりに観た人間味ある光景に、旧き佳き時代が甦る。当世風合理主義者にはわからないだろうが、こうした一見無駄とも思える仕事が、一時的にせよ機内で運命を伴にする者同士という、乗員乗客間に暗黙の運命共同体意識を育んでいたような気がする。
ところで、国内外を問わず最近のドラマに違和感を覚える旨は既に幾度となく書いた。いったい原因は何なのか、自分が想い描いていた内容を裏付けるような面白い記事を発見した。
これは、中国人から観た韓流ドラマと日本ドラマとの対比であるが、私奴に言わせれば、大陸(中国)ドラマも韓流と五十歩百歩である。それはともかく、島国である我が国の文化は、大陸や半島とはまるで違うということ。いや、極論するなら正反対と言ってよい。
ドイツ社会学者のフェルディナント・テンニースは、歴史的発展によりゲマインシャフト(共同社会)からゲゼルシャフト(利益社会)へ移行するとしている。この分類に当てはめるとすれば、現代中国や韓国は、ドラマだけでなく現実の身も心も完全な「利益社会」である。その意味では先進国家(?)なのかも知れない。我が国も外見上は都会へ行くほど「利益社会」化しつつあるとはいえ、大多数国民の内心にはまだまだ「共同社会」的要素を色濃く残している。
危惧するのは、昔に比べると日本の国内ドラマも中韓ドラマに近づきつつあるように思う。それが違和感を覚える要因の一つになっている。良い例が『鬼平犯科帳』。人気作品だけに鬼平役が四代替わっているが、昭和期の松本幸四郎、丹波哲郎、萬屋錦之介各版と平成になってからの中村吉右衛門版では、同じ原作でも視聴感が大きく異なる。
つまり、初代松本版は手許に映像がないので比較対象から外すとして、丹波版は子供時分に観た時代劇そのまま。萬屋版が過渡期とすると、中村版は完全に今風時代劇である。“鬼の平蔵”と呼ぶにふさわしい凄味は萬屋が一番で、それに次ぐのが丹波。中村はどちらかと言えば“仏の平蔵”にしか映らない。
ちょっとした台詞や立ち居振る舞い、ちょっとした小道具にも時代が反映する。例えば『あきれた奴』。又八が女房おたかに残す手紙は、丹波版ではちゃんと歴史的仮名遣いで書かれているが、中村版は何と現代仮名遣い。丹波版では左腰から外した刀は右手で携行し、坐るときは自分の右脇に置く。敵意がないことを示す武士の基本的な作法なのだが、中村版は一切無頓着。ところ構わず左手に持ち、左脇に置く。
『信じる』『愛する』『護る』の台詞がまったくないのが丹波版の特徴とすれば、中村版は不必要なほど出て来る。萬屋版はその中間。何より丹波版は明るく朗らかな娯楽作品に徹しているのに対し、萬屋版・中村版と今日に近づくにつれて暗く陰鬱な内容になってくる。笑いの場面がないではないが、取って付けたようでとても笑う気にはならない。
何でも昔のほうが良かったというつもりはないが、ドラマ制作者の内心から“やまとごゝろ”がスッポリ抜け落ちてしまったようで、居たたまれなくなってしまう。
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