国内ドラマに拘るようで恐縮だが、BSフジで『鬼平犯科帳』が再放送されている。人気シリーズだけに、1969年(昭和44年)にTV初登場以来、鬼平役が四人代わりつつも再三リメイクされてきた。初代鬼平の松本幸四郎版はリアルタイムで偶に視た記憶があるが、それ以外は未見。
目下、NET(現;テレ朝)・東宝共同制作になる二代目鬼平の丹波哲郎版(昭和50年)と、フジTV・松竹合作による四代目の中村吉右衛門版(平成元年~)が並行して電波に乗っている。原作は同じでありながら制作局や役者の違いのほかに、僅か十四年ほどのタイムラグしかないものの、昭和・平成という時代の違いも垣間見えてなかなか興味深い。
巷間、鬼平役と言えば中村吉右衛門の“はまり役”と考えられているし、事実、原作者の池波正太郎もそれを想定していたらしい。しかし、自分にとっては、やっぱり松本幸四郎でなくてはならぬ。どうでもいいけどこの吉右衛門、昔の市川染五郎(六代目)だと思っていたら弟のほうだったのですね。今の松本幸四郎(九代目)こそが、あの六代目染五郎なのだそう。兄弟で容貌が似てるし、歌舞伎役者の名跡はややこしい。
話を本題に戻そう。この二作品を比較してみての感想を述べるとすれば、丹波版を《映画的》とするなら吉右衛門版は遙かに《テレビ的》ということになろうか。劇場映画を観る際、周囲に観客がいるにも拘わらず、映画に集中していてそんなことが意識にあろうはずがない。ところが、自室で視るテレビとなると、なまじ身近なだけに突然電話が鳴ったり予期せぬ用件が出来たりして、必ずしも画面に集中できる環境にはない。
【身近】という意味では、《時代劇》なので自分の日常生活からはほど遠いし上記とも矛盾するが、なぜか丹波版は自分が劇中人物にでもなったかのような錯覚を覚える。これに対し吉右衛門版は、遙かに遠い別世界のバーチャルな出来事のように感じてしまう。
丹波版は丁髷が《かつら》とすぐわかるが、吉右衛門版はそれと気づかないほど良く出来ている。そういう精巧さやリアリティでは後者が優るのにどうしてだろうと熟々考えるうちに、ふと思い浮かんだのが“生活実感”や“季節感”。後者にそれらが全くないとは言わないが、かなり希薄である。前者が額に汗を滲ませたり揉み手をしたり等の人間味ある所作で季節感を呼び覚まさせるのに対し、後者は雪とか桜とか蝉の鳴き声とかの視聴覚要素に頼っている気がする。
生活実感で言えば、人間誰しも泥に塗れたり手を汚したり(文字通りの意味で)することがままあるわけだが、仕事着さえ着飾った余所行き風の吉右衛門版では汚れた場面はほとんど出て来ない。ゆゑに、吉右衛門版は、冷暖房の効いた快適な場所で撮られたというあらぬ疑念を誘発し、知りたくもない【舞台裏】が透けて見えてしまうのですよ。
夫婦・親子の情とか交友・信頼関係などを眼の動きや立ち居振る舞いで表現するのが丹波版だとすれば、吉右衛門版は往々にして何でも台詞にして語らせる傾向が強いように思う。例えば丹波版「魔剣」と吉右衛門版「暗剣白梅香」は原作が同じなのに、ずいぶん視聴感が異なる。
映像がなくてアレだが、両者の終結場面を台詞興ししてみよう。
☆ 丹波哲郎版(昭和50年)
長谷川平蔵(丹波哲郎) 岸井左馬之助(田村高廣) 酒井祐助(本郷功次郞) 金子半四郎(木村功) 利右衛門(稲葉義男)
平蔵「おぬし、変ったな。」
金子「なにい。」
平蔵「斬りたい殺したいの焦りはあっても、あの人間とも思えぬ恐るべき殺気は消えた。」
金子「黙れっ。」
平蔵「今のおぬしには、俺は斬れん。」
金子「何をぬかす。俺は斬る。」
不意を襲った利右衛門により、金子は短刀で刺し殺される。
平蔵「ご亭主。」
利右衛門「へぃ。私の本当の名は森為之助、元大津藩士にござります。」
平蔵「では、この男(金子)の。」
利右衛門「左様。この金子半四郎の仇。何ゆゑこの男が仇の私をそっちのけで長谷川様と斬り結んだのかわかりませんが、私にしてみれば殺されては堪らんの一心、このとおりでございます。ど、どうか如何様にもお裁きを。」
酒井と岸井が駆けつける。
酒井「お頭。」
岸井「どうやらカタが付いた後だったようだな。」
平蔵「見ての通りだ。森為之助の返り討ちに遇ってな。」
岸井「え~っ。」
利右衛門「長谷川様、私はどのように。」
平蔵「ご亭主、仇討ちが武士の習いならば返り討ちも武士の習いぢゃ。と申しても、今は町人のあんたではそうもいかんな。斬ったのはこの儂ということにしておこうか。」
利右衛門「長谷川様。」
平蔵「酒井、此処を誰にも見せるなよ。」
酒井「はっ。」
平蔵「哀れだなぁ。」
岸井「ん~、何がだい。」
平蔵「金子半四郎だよ。何があったかは知らんが、あの男生きる気になっておった。多分、これを最後に刀を捨てる気だったんだろう。その矢先に捜し求めていた仇と巡り会って、しかもそれを仇とも知らずに死んだ。」
岸井「なぁ~るほどねえ。」
平蔵「あやつめもやっぱり、人の子だったんだなぁ。正直言って、今日のあいつばかりは斬りたくなかった。」
岸井「だがな平さん、三の松平十がお前さんの命狙ってることも忘れちゃ困るよ、な。」
平蔵「哀れだ。」
岸井「ふぅ~っ、貴様ってやつはなぁ。」
語り「金子半四郎の死体は、長谷川平蔵を暗殺せんとした浪人者として処理され、誰一人何の不審も抱かなかったと言う。」
☆ 吉右衛門版(平成元年)
長谷川平蔵(中村吉右衛門) 佐嶋忠介(高橋悦史) 酒井祐助(篠田三郎) 木村忠吾(尾美としのり) 金子半四郎(近藤正臣) 利右衛門(牟田悌三)
平蔵「貴様、変ったな。」
金子「なにぃ~っ。」
平蔵「斬りたい殺したいの焦りはあっても、あのべらぼうな殺気が消えた。」
金子「黙れっ。」
平蔵「今の貴様には、俺は斬れん。」
金子「言うなっ、俺は貴様を斬る。貴様を斬って生きるのだ。生き直すのだ。」
不意を襲った利右衛門により、金子は短刀で刺し殺される。
平蔵「ご亭主。」
利右衛門「ええ、わたくしの本当の名は森為之助、元大津藩士にござる。この金子半四郎の仇でござります。何ゆゑこの男が、長谷川様と斬り結んだのかわかりませんが、殺されては堪らんの一心、斯くの通りでございます。どうぞ、如何様にもお裁きを。」
佐嶋、酒井、木村が駆けつける。
酒井「お頭。」
木村「どうやら片付いた後のようですな。」
平蔵「うむ、金子半四郎は死んだよ。森為之助の返り討ちに遇ってな。」
佐嶋「何ですと。」
利右衛門「長谷川様、わたくしはどのように。」
平蔵「ご亭主、気にするな。仇討ちは武士の習いなら返り討ちもまた武士の習いであろう。」
利右衛門「はぁ。」
平蔵「と言ってもなぁ、今は町人のお前さんじゃそうも言えねぇ。な、こうしよう。斬ったのはこの俺ってことにしておこうよ。」
利右衛門「長谷川様。」
平蔵「今からこの江戸を出るがいい。この船宿は当分の間、他の人に預けよう。」
利右衛門「有り難うございます。」
平蔵「誰にもこの場を見せるな。」
酒井「はっ。」
木村「いや驚きました。こういうこともあるんですな。」
平蔵「哀れだ。」
佐嶋「はっ、何がでございますか。」
平蔵「ん~、金子半四郎のことよ。何があったか知らんが、あの男はやり直す気になっていた。多分これを最後に刀を捨てる気だったんだろう。」
佐嶋「お頭。」
平蔵「しかもその矢先に、捜し求めていた仇に巡り会い、それを仇と知らずに死んじまったぁ。」
佐嶋「そんなことよりも、お頭、三の松平十に命を狙われているんです。今後とも十分にお気を付けにならないと。」
平蔵「うむ、いやぁしかし、哀れなもんだなぁ。」
語り「金子半四郎の亡骸は、長谷川平蔵を暗殺せんとした浪人者として処理され、誰一人何の不審も抱かなかったと言う。」
巧拙や優劣を論じるつもりはないし、人気作品だけにいろんなバージョンがあってよいと思うが、好みで言わせて貰えれば、断然【丹波版】に与する。なぜって、映像で判るような台詞は極力カットされ、視聴者にも思案の余地を残してあるから、幾らでも想像が膨らむのですよ。
例えば平蔵と金子との斬り合いの場面。丹波版の場合、金子は「俺は斬る。」としか言ってない。だからこそ最後の岸井との遣り取りで、平蔵の台詞が金子への思いやりの気持として活きる。ところが、吉右衛門版では、「俺は貴様を斬る。貴様を斬って生きるのだ。生き直すのだ。」とまで言っている。したがって、最後の平蔵と佐嶋の会話も、金子への思いやりとは映らず、単に周知の【事実】を語るだけの人情味に乏しい台詞に聞こえてしまうんですよね。
ぱうさん、コメントありがとうございます。
おっしゃるとおり原作者(池波正太郎)がTV放映時に想定して書いたのは八代目松本幸四郎のほうでしょう。ただ幸四郎亡き後、吉右衛門の「鬼平」実現を期待していたらしいですよ。
投稿情報: 管理人 | 2014年11 月27日 (木曜日) 午前 12時18分
吉右衛門を想定は間違いであろう
投稿情報: ぱう | 2014年11 月26日 (水曜日) 午後 11時00分