これまで韓流ドラマをさんざん酷評してきたが、比較の対象としたのはテレビ創成期(昭和40年代頃まで)の国内ドラマであった。四十年近くの長きにわたってドラマの類から遠ざかっていた関係で、趨勢を知らなかったこともある。ところが昨年暮れから、主に1990年代以降の国内ドラマ再放送を視ながら思ったのは、酷評した韓流と同じ傾向にあるようだ、ということ。即ち、ドラマ界とてグローバルスタンダード(国際標準)の波に抗しきれず、いつの間にやら“無国籍化(はっきりいってアメリカ化)”が進んでいたのだ。
外面こそ日本人好みの【弱きを助け強きを挫く浪花節風人情話】の体を装ってはいるものの、何処か不自然で“こしらえもの(作り話)”の臭いを嗅いでしまう。韓流ドラマを視聴して残る違和感と同じものだ。元々が“作り話”なのだから仕方ないが、どうも釈然としない。
昔のドラマに比べると、何でも台詞で語らせるから説明調でとにかく諄い。その台詞も【愛する】【信じる】【守る】といった、視聴者が普段滅多に口にしない重い言葉が飛び出す。おまけに、大抵は主人公がおのれの価値観に基づく一方的な説教を垂れて終わる。こうした傾向は、近年になるほど酷い。
ただ、韓流ドラマと決定的に違うのは、近しい人を庇って無実の罪を被りたがる点。しかし、“日本人の心情”を代弁したつもりかもしれないが、如何に大切な人のためとはいえ、自らを殺人犯と偽るなんて非現実的で、明らかにコトの本質を逸脱している。こんな歪んだ形で「親心」「孝行心」「忠誠心」「友情」等を“押し売り”されては「偽善」にしか映らないし、せっかくの美徳を却って貶めることになりはしまいか。
同じテーマでも、昔はもっと「娯楽」に徹していた気がする。【愛する】【信じる】【守る】といった重い言葉は殆ど出てこない。家族間・友人仲間同士にとって、昔はそれらが絆の要件であり証でもあったのだから、敢えて口にする必要がなかったのだろう。
定番時代劇『忠臣蔵』に、立花左近(垣見五郎兵衛)を騙る大石内蔵助が当の本人に出くわす場面がある。これは史実でなく後年の創作らしいが、どうして立花は《自分こそ贋者》とわざわざウソ(?)を吐いたのか。大石に屈伏させられたからではなく、浅野鷹の羽の家紋を観て「赤穂浪士」と察知したからである。《まこと、浅野の御家臣であったか》などと殊更無粋な確認をしないからこその名場面。それを口にしちゃったら物語そのものが成り立たなくなってしまう。立花はこの時、赤穂浪士と心の絆が結ばれたのだろう。こういう心情は、台詞によって容易に表現できるものではない。
元禄男の友情 立花左近 by 島津亜矢(原唱;三波春夫)
熱唱する島津亜矢さんには悪いが、“男の心情”を大股広げて女が歌うと、《何だかなぁ》との感想しか浮かびませんね。
以下は単なる憶測にすぎず確たる証拠もないが、戦前と戦後で受けた「教育」の違いが、いみじくもドラマに反映しているように思う。自分が就学期に視ていたドラマは、戦前の教育を受けた【教育勅語】世代が中心になって制作に関わっていた。ときを経て今や米国製の戦後民主主義教育を受けた世代だけでドラマを作っている。
何が言いたいかというと、とりわけ“心の在り方”の場合、戦前は「教える」より、環境に応じて「育む」ほうに重点があったのではないかと想像する。戦後教育は「教える」ことばかりに比重が偏り、「育む」視点に欠けてるように思う。教育を施される側(つまり、子供)から観れば一方的な価値観の押し付けと言えなくもない。
戦後教育の弊害は、学校や先生の教えは常に正しいとの前提で、何の疑問も抱かず自ら考える気力に乏しくなったことである。世の中が便利になったおかげで、自ら創意工夫する場面が減って、ある意味気の毒ではある。人々の“こゝろ”も身体と同様に代々親から受け継ぐものだが、それを心で感じとるのでなくおのれの「知識」に頼るから頓珍漢な【答え】が出てしまう。“心の在り方”は、誰かに教わるなり科学的知識により身につくものではない。自ら感じ取るしか方法がないのである。
なぁ~んちゃって、まぁ、時代に取り残された“老いぼれの僻み”だったかな。
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