この年、父が羽田空港へ転勤する。4月異動なるも暫くは単身赴任で、我ら家族が帯同したのは8月の夏休み期間中。このため、実際に転校したのは、中学三年第二学期からになる。面白いと言ってはナニだが、大分と千葉両方の卒業アルバムを持っている。第一学期に撮影済の大分の分は、送ってもらった。今にして思えば妙な話だが、送ってくれたのは直近中三時担任ではなく、中二時の先生。奇しくも苦手だった体育担当同士。お二方とも可愛がってもらった(苦い想い出はなく、文字通り。)クチ。が、陰では名前を捩って“虎ちゃん”と呼ぶなど、中二担任のほうが、より深い親しみを感じていたのだろう。
余談はさておき、懐メロを話題にする上で環境の変化が、大分・千葉のどちらで聴いた曲か、の判別を容易にして有り難い。
☆ あゝ青春に花よ咲け(昭和37年) - 松島アキラ
この曲が流行ったのが、ちょうど関東へ引っ越した時期と一致する。ゆゑに、自分にとっては、涙なくして語れない大分への“惜別の歌”である。
☆ 江梨子(昭和37年) - 橋幸夫
またしても橋幸夫?と思われるだろうが、ファンだった件の友人と同名映画を観ている。したがって、これは大分時代の曲。彼と違って、橋幸夫ファンでもない自分は、ストーリーとかシーンとか全く憶えていない。ただ相手役の三条魔子が、題名(曲名)に肖って『江梨子』と改名したことだけは妙に記憶している。
☆ 涙の日記(昭和37年) - スリー・ファンキーズ
スリー・ファンキーズは、メンバーが激しく入れ替わった。が、シングル盤ジャケットの顔ぶれは最初期のもの。これも大分時代の曲である。前年リリースされたバリー・ダーベル盤がオリジナル。しかし、本家本元のアメリカでは見向きもされず、日本でのみヒットした珍しい曲。
当時、いろんなカバー歌手が居たが、自分には斉藤チヤ子が一番懐かしい。この人、今観ると容貌が中島みゆきによく似てるし、声質も虚無的な歌い方もそっくり。いや、年齢に敬意を表して、中島みゆきが斉藤チヤ子に似ている、と訂正しておこう。
☆ 可愛いベイビー(昭和37年) - 中尾ミエ
コニー・フランシスがオリジナル。友人の当時2歳位の姪御が辿々しく歌っていたのでよく憶えている。これも大分時代の曲。中尾ミエは、自分と同じ福岡県生まれで一学年上。園まり、伊東ゆかりとともに“三人娘”と呼ばれていたが、現代っ子気質の気っ風の良さで年長者の園まりを押し退け、リーダー的存在であった。もちろん、自分にはそう映ったという単なる妄念に外ならず、実話ではない。
☆ 幸せを掴んじゃおう(昭和37年) - 金田星雄・小宮恵子
大都会を夢見て関東へ出てきたのだが、待っていた運輸省官舎は、梨畑に囲まれた林の中に建つ戦前からのオンボロ長屋だった。このうらぶれた住家とともに記憶している。ゆゑに、これは千葉時代の曲に間違えようがない。
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