如何に個人的な「懐メロ」とは言え、昭和30年代に入ると数が多くて選曲に困る。しかも大抵の場合、曲と当時の情景とがセットになって記憶している。つまり、曲意に関係なく、おのれの実生活と勝手に結びつけているからこその「懐メロ」なのである。例えば、前々稿で採り上げた『月がとっても青いから』(昭和30年)は、自分にとって立派な「懐メロ」に属する。しかし、同年のヒット曲『名月佐太郎笠』(高田浩吉)は、曲自体は知ってるけど「懐メロ」ではない。親父が高田浩吉嫌いだったから、思い入れがないのですよ。そんなわけで、ご息女の高田美和さんまで嫌いでした。が、美和さん、今になって観たり聴いたりすると、好いじゃありませんか。我が父は既に他界したし、ちゃっかり転向です。
余談はさておき、「懐メロ」が自分の生活に関係あるとすれば、変則的ながら小学校に入った昭和29年から始めねばなるまい。ということで、昭和29年の懐メロです。なお、当方の勝手な都合により、レコードの発売年を基準にします。したがって、年末発売や大器晩成型(?)の曲もあるので、必ずしも流行年とは限りません。
☆ 街のサンドヰッチマン(昭和28年) - 鶴田浩二
虾米音乐网サイトは在中国。そのためか、曲名が現代仮名遣いになっているが、原題は『街のサンドヰッチマン』。戦後も堂々と歴史的仮名遣いを用ゐてて凄い。【サンドイッチマン】は英語で【sandwich man】と綴る。ゆゑに、発音上も【サンドヰッチマン】のほうが原音に近い。小学一年生だったので、ひらがな・カタカナは全部教わったけど、歴史的仮名遣いにしかない「ゐ(ヰ)wi」「ゑ(ヱ)ye」は習わなかった。どうでもいいけど、日本円は【EN】でなくどうして【YEN】なのか。それは、円(圓)の振仮名が【ゑん(yen)】だから。今でこそ偉そうに知ったかぶりできるが、当時は未だ教わらない漢字だとばかり思ってましたよ。
鶴田浩二の歌なら、一般に『赤と黒のブルース』や後年の『傷だらけの人生』のほうが博く人口に膾炙しているが、自分にとってはこの曲が一番懐かしい。
註)のっけから失敗。前年度(昭和28年)の曲でした。
☆ 岸壁の母(昭和29年) - 菊池章子
復員船の着く舞鶴港の岸壁で、兵役を終えた我が子の帰りを待つ母親の心情を歌った曲です。歌詞に【悲願十年】とあるように、戦後十年(正確には九年)経てど、この母親にとっての戦争は未だ終わってなかったわけであります。自分の周囲にも、こうした境遇の人が幾人も居た時代なのですね。大分へ引っ越したのは昭和32年で、海軍大分航空隊基地がそのまま現役の空港として使われていたし、廃墟と化していたものの海軍弾薬庫や海軍高城発動機工廠には米軍空襲による生々しい弾痕が残ってましたよ。
☆ 高原列車は行く(昭和29年) - 岡本敦郞
岡本敦郎は、津村謙・伊藤久男の次ぐらいに好きだった歌手。実際に歌ってたわけじゃないけれど、ピクニック(遠足)気分でウキウキしてくる曲ですね。歌詞に【ハンケチ】が出てくるが、【ハンカチ】の上品な表現として当時の上流階級、とりわけ女性の間で遣われていた言い方。
同年代(昭和26年)に『高原の駅よさようなら』(小畑実)という曲もあるが、如何にも“惚れた腫れた”的な大人の世界であり、小学一年生としてはホームソング調で爽やかな此方に与したい。
☆ あなたと共に(昭和29年) - 津村謙・吉岡妙子
当時は、津村謙ファンという単純な理由で気に入ってただけだが、相手を立てた恭謙な歌詞が素晴らしい。デュエット曲はこうでなくっちゃ。舶来思想(はっきり言って『アメリカニズム』)に毒されて、自己主張があたかも美徳であるかのように曲解した現代社会とは対極にある精神ではないでしょうか。
これですよ、これ。現代人が忘れている【日本人本来の心】とは。
『あなたと共に』 作詞:矢野亮 作曲:吉田矢健治
(男) あなたと共に 行きましょう
(男) 恋の甘さと 切なさを
(男) はじめて教えてくれた人
(男) それが私の 運命なら
(男) あなたと共に 行きましょう
(女) あなたと共に 泣きましょう
(女) 辛い浮世の 波風に
(女) 破れた翼の はぐれ鳥
(女) それが女の 弱さなら
(女) あなたと共に 泣きましょう
(男女) あなたと共に 呼びましょう
(男女) 胸に点った このあかり
(男女) 消さずにかばって 抱きしめて
(男女) それが本当の 希望なら
(男女) あなたと共に 呼びましょう
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