妙なことがあるもので、この年から社会人一年生までの約六年間、ずぼらなクセして日記をつけていた。きっかけは、『高2コース』(学研)新年号付録に『PLANNING DIARY 1965』という日記帳があったから。巻末には【大学進学資料】が載っている。それによると、母校の学費(初年度納入金)は¥131,700-。私立だから、当時の国公立文科系相場の約5倍。今は幾らぐらいなのだろう。
まあ、大した内容ではないし、数日前を思い出しながら書いた日もあるが、毎日つけてる点だけは偉としたい。おかげさまで、当時の自分を知る最高の“史料”が手許にあるも同然。なぜなら、他人には見せられない超極秘物だから、【ウソ】がないのですよ。
正確に言うと、書き出しは前年(昭和39年)12月23日(水)から。今なら天皇誕生日で学校も休みだろうけど。因みに、49年前(昭和40年)の今日5月22日は土曜日だったんですね。大相撲では、明歩谷が敗れて佐田の山の優勝が決まったとか。NHKTV『夢で逢いましょう』のゲスト出演者はシルビー・バルタン(Sylvie Vartanを指す)となっている。今し方、ウィキペディアを覗いたら、1965年 20歳でジョニー・アリディと結婚、5月世界コンサート・ツアーの一環で初来日し全国ツアー、と確かにあった。
☆ チコといっしょに(昭和40年) - 本間千代子
NTV同名ドラマの主題歌とされるが、番組を視た記憶がない。けれども、ラヂオで聞き覚えたのか歌自体はよく知ってたし、気分が落ち込んだ時の激励曲という意味での愛聴盤。なのに学友に話したら、『声が震えてるじゃん』だって。確かに上手とは言い難いが、本を正せばこの人、童謡歌手だったんだけどなあ。なお、愛称“チコちゃん”と勘違いしてたが、本来は“チョコちゃん”なのだそう。歌の影響は、真に恐ろしい。
☆ 夏の日の想い出(昭和40年) - 日野てる子
長髪(ながかみ)にはリボンの代わりにハイビスカスの花を飾り、如何にも南国的な顔立ちとともに一世を風靡したものの、もうお亡くなりになったのですね。
☆ 可愛いあの娘(昭和40年) - 梶光夫
原曲(Nana Manis;可愛い女の子)はインドネシア民謡とされるが、どちらかと言えば童謡に近く、現地の子供なら誰もが知ってる曲。したがって、原詞は子供遊び時の囃し言葉に過ぎず、恋歌的要素はない。日本語歌詞にラササヤン(Rasa Sayang;愛)が出てくるので、マレーシア発祥の曲と勘違いしてた。こちらも子供歌ですけどね。
*ご参考* 原曲(Nana Manis)
☆ 新聞少年(昭和40年) - 山田太郎
修行のつもりで自分も手伝った時がある。イザやってみると結構たいへん。朝4時には起きて手作業で広告を折り込み、購読主が定めた場所に届けねばならない。ちょっとでも位置が違ったり定刻を過ぎると、忽ち苦情になる。広告折り込み作業は機械化されたと思うが、配達自体は今も変わらないのだろうか。新聞購読を止めて久しい。
☆ ごめんネ...ジロー(昭和40年) - 奥村チヨ
名にし負う勉強嫌いも、高三夏休みを過ぎると尻に火が点いた。鉛筆片手に、毛布にくるまりながら聴いていた曲。そのせいか、無関係な日本史【大化の改新】が、未だにこの曲と結びついている。
☆ 下町育ち(昭和40年) - 笹みどり
本来、日本調が嫌いなはずが、なぜかこの曲ばかりは当時から好んで聴いた。フジTVのドラマ主題歌らしいが、受験勉強中の身であったゆゑ全く憶えがない。いま、歌詞から想像して思うに、《女は弱し、されど母は強し。》と言うけれど、外見は弱そうでも心(しん)の強い伝統的な女性が次第に隅へ追いやられ、内面の美しさより外見(容姿・スタイル)ばかりが持て囃される時代に入っていたのだろう。その反動なのかも知れない。
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